024. あなたに会いたい
独りだった。
物心がついてからずっと、静寂に包まれて過ごしてきた。
地下深くに隠された独房、蝋燭のほのかな炎だけを灯りにして。
唯一、頻繁に訪れ話しかけてくれた父親は、八年前の大戦で奇術をかけられ、眠り続けたまま目覚めない。
歳月を経て、世界の情勢が一変し、ようやく太陽の下に出た今でさえ、石牢の中と変わらぬ凍てついた場所に、エーギルは立ち尽くしているのだった。
軍靴の足音が、長く静まり返った廊下に響く。
無言で現れたエーギルを一目見て、宮内の警備をしていた衛兵たちはかしこまって敬礼した。
武官の筆頭・国王軍総帥を務める人物であるとはいえ、エーギルの素性は公になっていない。それでも衛兵らが黙って王弟の私室へ通すのは、エーギルに王家の血が流れていることが誰の目にも明らかだからである。
涼やかな蒼氷の双眸、すらりとした立ち姿。王弟クロノスの青年時代にそっくりだと、古株の宮仕え者たちは囁き交わさずにいられない。それほどエーギルの容貌には色濃い面影があった。
王弟の寝室はひっそりと閉ざされ、内装の豪奢さにもかかわらず、エーギルに地下牢を思い起こさせる。
絹織物がふんだんに使われた天蓋の下、エーギルの父親は横たわっていた。青白い、すでに見慣れてしまった人形さながらの寝顔である。
死には至らない、けれども覚めることのない昏々たる眠り。今や宵闇の世界の住人である王弟クロノスは、本来であれば、王統を継いで海人王となっていたはずの人だった。
彼が夢の国に閉じこめられたのも、海人王の御位をクロノスの双子の姉であるレアが継承しなければならなくなった原因も、もとを質せばエーギルの存在に辿り着く。海人王レアがエーギルを憎み、そして天人国を恨むのもまた無理からぬことだと、エーギル自身、向けられる憎悪について幼い頃から淡々と納得していた。
『また明日な、エーギル』
かつて鉄格子越しに、去り際にいつもかけてくれた言葉。父は何を考えて自分を城に引き取り、どんな気持ちでその言葉を繰り返し口にしていたのだろうか。
(遠い……)
瞳を閉ざして眠り続ける父。今はもうおぼろげな印象しか思い出せない母。年を重ねるごとに憎しみを煮詰めていく伯母。胸中をよぎる面影は、どれもが決定的なまでにエーギルから隔たっている。
悲しくはなかった。地下牢の暗がりに半ば溶け込むようにして生きていた頃も、その後も、心がはっきりと動いたことなどほとんどない。自分には情というものが欠けているのだろう、とエーギルは考えていた。
……それでもただ一度、例外があるとするのなら。
波間にたゆたう思考の末、エーギルの脳裏に浮かび上がるのは、いつも決まって一人の少女の姿だった。
幼かったあの日、地下の石牢で出会った天人の娘。緊張か恐怖か、さしのべてくれた指先はかすかに震えていた。煤だらけの顔に咲いた笑顔。「一緒に行こう」と気丈に言った、あの小さな女の子。
薄明かりの地下室にあっても、光を含んできらきらと輝く金色の髪をしていた。淡い初雪のように舞った白い羽根。自由に、しなやかに翔ぶための翼。光の子。風の娘。空の眷族。
まばゆいほどに、惹きつけられた。
あの時あの場所に捕らえられていた子どもが“空を往く者”を統べる天人王の姫であったとエーギルが知ったのは、のちのち年数を経てからのこと。世界が荒廃から立ち直り、血にまみれた戦乱の記憶が遠ざかり始めてからだった。
(あの子は今、天人の王宮でどう過ごしているだろうか)
ほんの一時だけの追想。
物言わぬ父親の枕元に佇み、エーギルは独り静かに、その遠さに思いを馳せるのだった。
*
多くの陸上生物にとって、水中は生存不可能な死の領域である。長くても数分しか息が保たない。
けれども世界に在る五つの種族のうち、海人種族ならば話は別だ。海棲の大型ほ乳類や獰猛な魚類を圧倒し、光の届きにくい深淵へと分け入り、大海原を自在に駆ける。水に愛された民。それが海人という種族である。
最も古い歴史と伝統をもち、海と陸とを支配できる自分たちこそ世界に冠たるべきだ、という選民意識が強いのも人種的特徴だろう。
大戦後、そうした国の玉座を父王から譲られたレアは、一見したところ政務をよくこなしていた。不本意な戴冠ではあったが、もともと王家に生まれた者として帝王学を仕込まれていたこともあり、臣下とよく協議するし、醜聞になるような私生活の振る舞いもない。
歪みというものは、根が深くなればなるほど、たやすくは表層に出てこないのである。
月日を経るにつれて、レアの抱いた妄執は密やかに募っていく。地下深くにひたひたと流れる毒水にも似て、狂おしい思考が如実に彼女の心を染め、蝕んでいた。
しかし彼女の夫をはじめ、多くの周りの者は気づいていない。このときは……まだ。
八年。生きる屍にも等しい王弟。年数をかけて縁を削り取られた防波堤は、今まさに決壊の瀬戸際であった。
「八年、か。早いものだ。あの幼子が立太子するとはな……」
ある日、エーギルを謁見の間に呼び出した海人王は、虚空に視線を投げだしたままそう言った。
「八年。あの子は眠り続けたまま目覚めない」
呟くように、歌うように。王の紅い口元に浮かぶ、笑み。
珊瑚礁を思わせる青緑色の双眸には、複雑にねじれて濃縮されたいくつもの感情が、渦となって見え隠れしている。耳や首筋を彩る大粒の黒真珠よりもよほど際立つ、不穏な色を孕んで濁った瞳だ。
エーギルは無言。冷たく動かぬ父親の寝顔と同様に、煮えたぎる憎悪に浸かった王の姿も見慣れていた。
(半身をもがれた痛みがどれほどのものか、俺には一生分からないのだろう)
多胎出産が当たり前のこの国では、エーギルのように双子の片割れを伴わずに生まれ落ちた者を『忌み子』と呼び、不吉なもの不浄のものとして嫌う風習がある。
庶子とはいえ、仮にも当時の王太子の息子であるエーギルが地下牢で幼少時を過ごし、出生が明らかにされないまま現在に至っているのは、すべて畏敬されるべき王家の風評を守るためだった。
そしてクロノスが乱世に軍勢を率いて天人国へ侵攻した動機も、忌み子と蔑まれ地下牢に幽閉されている息子を憂えたから。子の自由を購うために、父は漆黒の軍服を纏って最前線へと出陣したのだった。
「分かっているだろう……エーギルよ」
玉座に沈み込んだ王の一瞥がエーギルに向けられる。静かな鬼気。陰惨な微笑が深まり、哄笑になる寸前で収縮して言葉へと形を変えた。
「時は満ちたのだ。今こそ仇を討つがよい。お前の、その手でな」
王者に相応しい玲瓏たる声で放たれた命令は、剣呑で、禍々しく、破滅的ですらあった。
(天人国へ行け、と?)
この日の昼、親書を携えた天人国からの使者が海人王に面会したことを、エーギルは思い起こした。かの国の世継姫の、生誕祝賀会を催すのだという。清雅な招待状だった。
あのときの小さな女の子が、もうすぐ十五歳。成人に準じる年齢に達し、正式に王太子の名乗りを上げることができるのだ。そして月日が満ちれば中継ぎの現王から宝冠を譲り受け、正統なる天人王として即位するのだろう。
とうに亀裂の入っていた海人王の心を、その未来図が決定的に裂いたに違いなかった。悲嘆と失意ばかりを映してきた目には、あまりにも眩しくて。痛くて。身の内を焦がして巻き上がる、黒炎の嵐──。
(天人の姫が立太子する)
エーギルの遥かな記憶の中、ひとひらの羽根が風に舞う。
今も耳に残る、あの幼い声。「一緒に行こう」と真っすぐに見つめてきた瞳は蒼穹の色をしていた。すべてを包み込むように柔らかい、蒼。
(会いたい……もう一度だけ)
そう、思った。
*
吹き抜けの大広間は、天人国独特の優美なものだった。
熟練の宮廷楽師団が奏でていた麗しい楽曲はぶつりと絶え、一瞬にして異様な空気が垂れ込める。
エーギルの前には倒れ伏した天人王ミカエルと、その嫡男。刃から滴る赤……赤、赤。
「これは報い。八年前から王の片割れは眠り続けたまま、もはや目覚めない」
己が呟いた言葉を、エーギルはどこか遠いところで客観的に聞いていた。
報い。それは海人王が育てた彼女の呪詛だ。エーギルの想いではない。けれども今こうして血臭の中に佇んで、耳の奥にこだまするのは伯母の悲しい怨嗟の声ばかりだった。
瞬く間に広間に満ちた悲鳴と怒号の中、夜会の主役である少女がこちらを見つめている。蒼白になって立ち竦み、双眸を見開いて。信じがたいものを見る眼差しで。
とても懐かしい、その蒼。エーギルが繰り返し脳裏に思い描いていた娘だった。
『お初にお目にかかります。お会いできて光栄ですわ、総帥閣下』
彼女はエーギルを憶えていないようだった。今しがた交わした言葉はごくわずか。それでも清らかな声が耳に心地よかった。胸が締めつけられる。彼女から目をそらせない。
“会いたかった”
囁きは、きっと彼女に届いていない。かまわなかった。
後先のことを考えなくなって久しい己に芽生えたもの。今宵の血で封じられた、ささやかな想い。
引き延ばされた最後の一瞬、視線が触れあった。今にも泣き出しそうな表情をしている。
青ざめた頬へ手をさしのべれば届きそうな距離だというのに、なぜだろう、やはり彼女の存在はひどく遠い。遠すぎて、まるで夢のようにかすんでいく。
共に往くことができるとは……思われなかった。
イラスト:KT様