ファンタジースキーさんに100のお題

026. 堕ちた聖域 (2)

 と、そのとき。
 最初に清白が感じ取ったのは音だった。ぽっ、ぽっ、と連続する軽い音。
 続いて、炎。青白い火球が二つ、虚空に躍り出る。
 思わず葛葉を振り返ると、驚きもあらわに琥珀色の双眸を見開く彼女の姿が視界に飛び込んできた。葛葉の仕業ではないのか。

「……招いておるのか?」

 炎は誘うように揺らめきながら、少しずつ確実に、奥の一角へ向けて動いていく。
 清白にとっては得体の知れない妖術だ。しかし不思議と禍々しさは感じない。葛葉と顔を見合わせた後、うなずきあって火影を追った。
 気が急くのだろう、葛葉は足早に進みながらも廊下の果てを食い入るように見つめている。

「我が一族の使う狐火に、よう似ておる。誰か無事な者がこの奥におるのじゃな」

 呟く声には、くっきりとした喜色。
 生まれ育った城が災厄に沈んだ、そのときの圧倒的な絶望は、今も彼女の胸に真新しい痛みを生み続けているはずだ。だからこそ、この殿舎に生存者がいるらしいと分かってこらえきれないのだろう。

 ほの蒼い炎が、刹那、ひときわ強く光り輝いて四散した。
 廊下の突き当たり、最上階の最奥。ひと続きの襖で仕切られた大きな一間だ。位置取りといい襖を彩る厳かな意匠といい、一等室であることは間違いない。
 おそらくは、清浄なる殿舎の主──刑部姫の居室。

「御免。失礼つかまつる」

 ここまで来て怯むような惰弱さなど、清白という青年の内には存在していなかった。襖に手をかけ、一気に引き開ける。
 焚きしめられた香の、ほのかな匂い。天窓から光が差し込んで、部屋の中は意外なほど明るい。
 中央に、座している人物。隙なく端座していてなお、彼女がひどく小柄な身体つきをしているのが一目で分かった。

(子ども?)

 どう見ても、小柄というより幼いと表現したほうが的確だった。
 外見を見る限りでは、人間の年回りで言う十歳にも満たないだろう。成人女性の正装である、幾重にも衣をかさねた唐衣裳(からぎぬも)姿をしているが、両頬は白桃のようにふっくらと丸く、腕も指さえも未だ伸びきらずに未成熟な様子が見て取れた。
 こんな無人の聖域にいるよりも、春の野原で無心に蝶を追ったり、花冠を作ったりしているほうがよほど似合いそうな童女が、殿舎の奥座敷に鎮座していたのである。

 あっけに取られた清白は、いま目の前にある現実をうまく飲み込むことに失敗した。思考は空転し、声は喉の奥に絡まるばかりで、意味のある言葉など出てこない。
 驚きを隠せない清白と葛葉の視線を一身に浴びながら、童女のまぶたがゆるりと開かれる。
 大きくつぶらな双眸。緑柱石の色をした両の眼には、幼い容貌とは裏腹に、深く理知的な光が明らかに宿っていた。
 さくらんぼのような童女の唇から第一声がすべり出る。

「天狐族の同胞、敬愛せし大主の娘……よう来てくれましたね。わたくしが刑部です」

 澄み切った、いとけない声。銀の鈴を思わせる響きだった。
 緑柱石の瞳が、琥珀の瞳を見つめる。刑部姫の目元がふっと和んで、親愛の眼差しで葛葉を見上げた。

「葛葉殿。しばらくお会いしないうちに、大きゅうなられましたね」
「えっ」

 見た目の年齢が自分の半分以下の相手にそんなふうに言われて、さすがの葛葉も戸惑ったようだ。
 葛葉自身が体現しているように、人妖の年齢を外見から推しはかることは難しい。とはいえ、百歳を超す葛葉より年長であるのなら、ここまで幼い容姿は通常ではありえないのだろう。
 ああ、と刑部姫は一つうなずいた。

「前にお会いしたとき、あなたはまだ愛らしく伝い歩きをしておられました。わたくしのことを憶えていなくとも無理はありません」

 それで得心のいった葛葉は改めて挨拶を述べ、手早く清白を紹介した。
 鮮やかな緑色の瞳が、おっとりと清白に視線を注ぐ。なんとなく居心地の悪い思いを味わった清白は、肝心な話に入れと葛葉を急かした。
 しかし、父親である白蔵大主の支配地から出たこともなかった箱入り娘が、人間の青年ただ一人を伴って唐突に訪れてきた事情について、説明されるまでもなく刑部姫はすべてを掌握していたのだった。

「占いにことごとく大凶兆が出て、もしやと思いましたが……災厄の解き放たれた様が、この宮居にあってもはっきりと分かりました。お父上をはじめ、白碇城(はくていじょう)の皆々様のことはお悔やみの言葉もありません。ですが葛葉殿だけでもご無事で本当によかった」
「こちらこそ、刑部様に災禍がなく安堵いたしました。この一帯には、例の──怨霊の通った気配がありましたゆえに」 「ええ。封を解かれた怨霊が、こちらに進んでくるのが見えましたのでね。急いで宮の者たちを西の里へ避難させて、被害を最小限に抑えるためのまじないを施したのです。一気に力を使ったおかげで、このように小さな姿を取らざるを得なくなってしまいましたが」

「なるほど、だからこの殿舎だけ毒気が薄かったのか」

 清白は思わず呟いた。
 つまり、この殿舎に死体がまったく見当たらなかったのは事前に全員を退避させたからで、刑部姫が一人残っていたのは怨霊の毒気を抑える術を起動させるためであり、彼女が童女の姿をしているのはその術に大きな力を割いたせいである、と。

「では、刑部様。かつて封呪の石碑を作り出されたというあなた様に、どうかご助言を賜りたく──。あれを捕らえて再び眠りにつかしめるためには、どのような方策が有効でしょうか」

 じかに接すればたちまち命を吸い取られ、近づいただけでも濃厚な毒気に当てられる。荒ぶる祟り神に等しい存在である。捕縛といっても生半可な手段では太刀打ちできない。
 例えば、どこかの平原に巨大な罠を仕込んでおき、そこへ怨霊をおびき寄せて、鎮め、上から何重にも封印する。そうした大掛かりな手立てを用意しなければならないことは承知しているのだが、いかんせん情報と知識が乏しくて具体策を練りようがないのである。

 つと、刑部姫が立ち上がった。
 涼やかな音を立てる櫛の珠飾り。金襴の腰帯から流れた白緑色の裳裾(もすそ)が、彼女の足元に波紋のように広がる。姫が歩を進めるたびに繊細なひだがさらさらと揺れ、心地よい衣擦れの音が清白たちの耳をくすぐった。

「確かに、殺生塚と呼ばれたあの封印石を作ったのはわたくしです。そして、穢れにさらされたこの殿舎を清めたのち、新たに同じ石碑を作って第二の殺生塚に据えることも、可否を問われるならば『可能』とお答えいたしましょう」

 ぱっと表情を輝かせた葛葉を制するように、刑部姫は「けれど」と続けた。

「けれど、わたくしの作り出す封印石は、あくまでも封じの術式を完成させるための、総仕上げの一手。最後のひと押しなのです。それさえあれば怨霊を抑えて封じ込めることができる、というものにはなり得ません」
「つまり、弱らせるなり酔わせるなり、あれの動きを抑えるための手が別に必要ってわけだな?」

 清白のくだけた物言いにも、刑部姫が気を悪くする様子は見られない。品よくうなずいて、憂いを帯びた緑柱石の瞳をそっと伏せた。

「いかに妖力甚大の天狐族とはいえ、生まれ持った力だけであの怨霊を絡めとることはまず不可能でしょう。素手で雪崩を受け止めようとするようなものです」
「……では、その昔に父や刑部様があれを封じた折には、どういった方策を用いられたので? 我々はこれから一体どのようにしたら」

 つかの間考え込んでいた葛葉が、胸中の切実さを隠しきれない様子で訊ねた。
 『封印石を作ることができる刑部姫』と面会して教示を得られれば、封印の具体策を立てられる。やみくもに怨霊を追うだけの現状を打開できる。そう踏んでここまで駆けつけて来ただけに、姫の語った事実は、少なからぬ衝撃を葛葉と清白に与えたのである。

火明(ほあかり)の一族」

 刑部姫の口調は明朗だった。
 胸元から取り出した小ぶりの扇──葛葉が戦場で使うような鉄扇ではなく、身分ある女性の普遍的な日用品──で口元を覆い、幼き姿をとった人妖の古老は粛々と語り始める。


 死の化身に清浄さを乱された宮居にて。
 葛葉と清白は、その手に一縷の希望を掴もうと懸命だった。
 滅びの怨霊の解放より八度目となる黄昏が、音もなくそっと殿舎を包み込んでゆく。


 END