ファンタジースキーさんに100のお題

034. 迷いの森の守護者 (2)


 しゃらん、と澄んだ音が聞こえた。
 見渡す限りの湧き上がるような霧の中、浄天眼を使っても清白と雲取の気配を捉えることができず、葛葉が途方に暮れかけていたところである。

 しゃん、しゃん。
 近い。音の源に意識を集中させようとしたが、探るまでもなかった。不意に霧が凝り、逆巻く。そして──笠を目深に被った黒衣の法師が、忽然と姿を現したのだった。
 澄んだ音はその手にある錫杖が立てていたらしい。杖の頭についているいくつもの環が、法師の身振りに沿って清浄な音を響かせる。

 しゃん、しゃらん!
 一際強い音が打ち出された。
 余韻はない。残響は辺りの霧が吸い込んでしまうのだ。錫杖の先端を突きつけられた瞬間、葛葉はそんなことを考えていた。

「……いきなりずいぶんなご挨拶じゃのう」

 のんびりとした口をきけたのは、法師に敵意がなさそうだったから。
 敵意どころか、生きものがみな持ち合わせているはずの気配が、ひどく薄い。まるで植物や、妖術で作り出された幻影などのように。

「そなたに問う」

 厳かな声で法師は言葉を紡ぐ。その口元だけは笠に隠れず露出していたが、感情めいたものは微塵も浮かんでいなかった。

「天狐の姫よ。怨霊封じという重責を、なにゆえ一人で背負おうとする。そなただけが危険を冒さねばならぬ道理など、ありはせぬ。そうであろう?」

 おや、と葛葉は内心身構えた。旅の途中でよけいな騒ぎを起こさぬようにと、天狐族の特徴的な耳や尾を術で隠して外見を変えているのだ。にも関わらず素性から事情まですべてを知っている、この口ぶり。ただの巡業僧であるはずがない。
 朗々たる口上はとまらず、突きつけられた錫杖は小揺るぎもしない。

「いかに天狐族が妖力甚大とはいえ、未曾有の怪異を一人で相手取れると本当に思っているのか。火明の系譜に助力を願うのではなく、そもそも怨霊封じを依頼すべきではないのか。今までろくに遠出したこともない箱入り娘のそなたに、一体何が成せるというのだ」

「……なるほど。まあ一理あるのう」

 頷いてから、葛葉は首を傾げた。

「で、おぬしは何がしたいのじゃ。そのようなことを妾に問いただして何とする?」
「質問に質問を返すでない。訊いているのはこちらだ」

 霧を纏った法師は決然とした声で告げる。

「もとをただせば、此度の惨事は愚かな人間どもが引き起こしたこと。そなたが責を負う必要もなかろう」

 揶揄めいた調子ではない。至って恬淡としたものではあったが、怨霊を封じようと手探りで懸命に進む葛葉の気勢に水をさす言葉には違いなかった。

 そう、確かに一理あるのだろう。
 ひっそりと暮らしていた白蔵大主の縄張りへ踏み込み、白碇城の奥深くで守られていた封印石を壊したのは人間たちの所業なのだ。天狐族は被害者と言ってもいい。
 いくら生き残りとはいえ、災禍を招き寄せた人間たちの後始末を葛葉が買って出る謂れは、ない。
 少なくとも、中にはそう考える者がいるかもしれない、とは葛葉も思う。
 だから得体の知れない法師に指摘されても、さほど驚くことはなかった。

「そうさのう……。道理だの責任だのと言うておる場合ではない、ただそれだけのことじゃ。あの怨霊を野放しにしておくわけにはゆくまいて」

 生あるものに仇なす猛毒の怨霊を鎮め、再び封じることは絶対要件だ。さもなくばこの地は喰い散らされて荒野と化すだろう。
 世間知らずの姫の暗中模索ではあっても、最も詳しく経緯を把握していて動ける者が己である以上、手をこまねいていられるわけがなかった。猶予はない。とにかくできることを為すのみ。

「それに妾は一人きりではないぞえ。協力してくれる者がおるゆえに、な」

 時を惜しんで新たな封呪の石碑を作っているはずの老賢者や、少々口は悪いが底抜けに人の良い青年の顔が脳裏に浮かぶ。ついでに、追い払っても小突いてもけろりとしている、全くやかましい鴉天狗の顔も。

「むろん火明の衆にはでき得る限りの助力を請うつもりじゃ。それも含めて妾は──全力を尽くす」

 言霊を乗せるような宣言だった。
 次の瞬間、風が奔った。
 音を立てて押し流される霧。視界が一気に開ける。朝の光。漂白されていた周囲に色彩が戻る。

〈天狐の姫よ。決意あらば進むが良い〉

 葛葉は呆然とその言葉を聞いた。
 霧が晴れた途端、法師はかき消されたようにいなくなってしまった。現れたときと同様だ。振り返っても見上げても、黒衣姿を見いだすことは、もはやなかった。

 ひょっとして白昼夢でも見たのだろうか。そんな思いが胸をかすめる。
 森の奥、どこか遠くで、かすかに錫杖の澄んだ音が響いた──気が、した。