ファンタジースキーさんに100のお題

038. 星の乙女 (3)

 もうひと押し。

「泣いても遅いぞえ、二足歩行の女郎蜘蛛め」

 鉄扇を握る手に力を込め、葛葉は鵺に躍りかかった。接近戦に持ち込んで術を組み上げる余裕を与えない。それが最も有効と踏んだのだ。
 果たして、読みどおりに鵺は算を乱した。鉄扇の初撃こそなんとか避けたものの、大きく体勢を崩して地に倒れ込む。のけぞる白い喉。乱されたやわらかな腐葉土がかすかに匂いたった。

「勝負あったな」

 埃を払うために扇を広げる。ふと、あらわになった鵺の喉元が視界に飛び込んできた。

(え?)

 まず目を疑い、そして目を凝らした。あれはなんだろう。そんなまさか。
 直後──葛葉は唐突に動けなくなった。
 身体が、動かないのだ。前に進み出ようとした足も、鉄扇の要を掴んでいる指でさえも。

 今しがた脳裏に兆したばかりの驚きも一気に吹き飛んだ。ただ愕然と立ち尽くす。見えざる糸で縫いとめられたかのように、意思に反して身じろぎひとつできなかった。
 構成など一片たりとも視えなかった。妖術ではないということだ。けれど……

「形勢逆転ねえ。まったく、誰が女郎蜘蛛よ」

 ゆっくりと身を起こす鵺の手には、美しい薄布が握られていた。
 折りたたんで懐に隠し持っていたらしい。つややかに虹色の光沢を放つ布地はまばゆいほどで、つい二日前に阿古耶から借り受けたばかりの羽衣を強く思い起こさせる。

「……火明の神器かえ」

 かろうじて絞り出した声はひどく乾いていて、我ながら聞き取りづらかった。だが鵺には届いたらしい。底の見えない美貌に再び嘲り混じりの花が咲く。

「察しは悪くないのね。ええ、これが蛇ノ紗布(おろちのひれ)。神代の遺産よ」

 蛇ノ紗布──。
 やはり、と納得が胸に落ちた。火明の末裔が有する瑞宝のうちのひとつだ。葛葉たちが物部の衆に貸してほしいと頼もうとしていたもの。
 葛葉の背に怖気が這い上がった。
 抗おうにも抗えないのだ。妖術ならば発動前でも構成から術の概要が推測できるのに、身体が戒められている今もなお、一体どのような力が作用しているのかすら見当もつかなかった。突破口が見出せない。
 古より受け継がれる神宝とはこれほどまでに圧倒的なのか。

(妾が一対一で後れを取るとはな)

 初めての経験だった。昔から立ち回りや妖術が得意で、戦いに熟練した同胞が相手でも負けたことなど一度もなかった。実戦経験こそあの怨霊解放の戦だけだけれど、人妖ひとりに苦戦する事態などあまり考えたことがなかったのである。

 いかに瑞宝の神威に打たれても、このまま大人しくなぶられるわけにはいかない。
 動かない身体、竦む心を奮い立たせて術の構成を編み始める。が、すぐに困惑することになる。
 いつもなら呼吸をするように自在に妖力を扱えるのだが、意思に反して微動だにしない四肢同様、己の中を巡る力はちらとも応えてくれなかった。練り上げようとする端から構成が崩れていく。
 どうやら妖術もまた封じられてしまったのだと、認めざるを得なかった。

 生まれてこのかた初めて体験する異常事態である。自由になるのは口だけで……、つまり山菜採りに行った清白たちが戻るまでの時間を稼ぐことしかできそうにないのだった。

「さすが世に二つとない至宝じゃの」

 唇や舌も思うようにならず、もつれたような喋り方になってしまう。悔しい。

「見事なまでに身体は動かぬし、どうやら術も使えぬわ」
「さすがの天狐もこの縛からは逃れられないようね」

 嗤いの薄れた声でそう言った鵺は、葛葉を見てはいなかった。胸の前で両手に捧げ持った瑞宝に目を落とす姿には、どこか畏れるような気配がにじみ出ていた。
 敵の動きを封じることができるのならば、戦いにおいてこれ以上の有利はないだろう。それを可能に成さしめる瑞宝の稀有さは計り知れない。葛葉でさえ空恐ろしくなった。

「ちょっと半信半疑だったんだけれど、本当によく効くのね。いいざまよ、白碇のお姫様。まさに蛇に睨まれた(かわず)じゃない」
「誰が蛙じゃ。失敬じゃの」
「あら、そっちこそ何度も暴言吐いてくれたでしょうが。アッタマ弱いんじゃないの? あたしのどこをどう見たら女郎蜘蛛なんて雑言が出てくるのよ」
「……然り。男に対して言う言葉ではなかったのう」

 鵺はぎょっとして動きをとめた。
 動けぬ葛葉と硬直した鵺、両者の間を戦闘の余波で散った木の葉が舞い過ぎていく。
 目を見開く鵺の顔かたちは、何度見てもやはり美しい。やや低めの甘い声を聞いてもなお女性としか思えなかった。
 しかし先ほど垣間見えた喉の尖り、あれは女性の身体にはあり得ないものだ。

 やがて鵺は短く嘆息し、蛇ノ紗布を振った。葛葉の拘束がふわりと消え失せる。

「初対面で見破られたのは久しぶりだわ。どうして分かったの?」

 鵺の口調に不自然なところはどこにもない。よほどの演技派か、さもなくば普段からこういう言葉遣いをしているのだろう。

「喉首が見えたのでな。おぬし、なぜ女性を装っておるのじゃ」

 葛葉とて旅に出てからは男装しているが、それは女であることを隠して安全を図るためというよりも単に動きやすいからで、そもそも男に間違われるとは思っていない。他人の目を欺いたほうが良い場面では妖術で確実に見た目をごまかすことにしていた。
 疑問に対する鵺の答えは明快だった。

「趣味嗜好よ。似合うでしょう?」

 満面の笑みを浮かべた表情はひどく蠱惑的で、確かに一抹の迷いもない。

「はあ、まあ、そうじゃのう……」
「別に女装にこだわりがあるわけじゃないんだけど。でも女の姿のほうが綺麗でしょ。あたしの美貌に相応しいわ」

 鵺の弁によると、女の姿のほうが似合って美しいからと女装し、その姿に相応しい口調と振る舞いを続けるうちに、今ではもうこの有様が自他共に定着しているのだという。
 脱力感を覚えて肩を落とした葛葉をよそに、鵺は高らかに言い放つ。

「みな強く美しいあたしを讃えてこう言うわ。【星の乙女】と」

 唖然としてしまったのは数秒ほどだった。葛葉はとりあえず鉄扇を閉じて鵺を見つめる。賞賛に値する妖術構成力の持ち主だというのに、なんだか色々と台無しな気がするのはなぜだろう。

「……星は星でも凶星じゃろ。しかも乙女でもなかろうに」
「ふふん、なんとでも言うがいいわ。一番星は凡人の声など届かないところで美しく輝くもの」
「どう見ても人を惑わす禍つ星ぞえ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」

 それから鵺はリッカと名乗り、打って変わって友好的にあれこれと話しかけてきた。
 妖術に長けた、変わり者の鵺。やはりどうも掴みどころがない。

(つまり、妾は男に素肌を見られたのかえ)

 葛葉は額を押さえて嘆息した。あまり深く考えないほうがよさそうだ。


 このあと合流した清白と雲取は、もちろん、鵺を女性と勘違いした。
 彼らは鵺の頸を拝見する機会がなかったし、わざわざ教えると面倒なことになりそうな気配を察した葛葉が賢明にも口を閉ざしたため、仕方のないことである。
 夕刻になって物部の里から迎えの者が到着し、葛葉たちと親しげに言葉を交わすリッカの姿と、その懐から覗く瑞宝を見て盛大に頭を抱えていたが……こちらもまたやむを得ないことであろう。

「世の中にはいろんな者がおるのう」
「なぁに独り言なんか言ってるのよ?」
「いや何も。物部の里はまだかのう」
「もうすぐそこよ。ほら、見えてきた。ジジババどもが歓待の支度をしてるし、昔語りを聞きがてら、今夜は泊まっていくといいわ。湯浴みもできるわよ」
「……今度は土足で踏み込んでくれるなよ」

 多少恨みがましく言ってみたものの、鵺はちっとも悪びれることなく笑い声をたて、弾むような足取りで先に進んでいく。

「何やらどっと疲れたのう」

 諦めにも似た境地で呟きつつも、丁重に里へと迎え入れられる頃には、早くもこの風変わりな鵺の存在に馴染んでしまったことを自覚する葛葉であった。


 END