ファンタジースキーさんに100のお題

047. 大ピンチ! (2)


「ともかく、劣勢と見たらすぐさま撤退ぞ。絶対に死んではならぬ」

 話がまとまるとすぐに迎撃準備に移る。
 リッカは術の構築作業を始め、雲取は受け取った羽衣を矯めつ眇めつして首にかけた。阿古耶(あこや)をはじめ木霊たちが大切に守ってきた美しい神器だが、野良作業中の汗拭きのように無造作に装備するのがいかにも雲取であった。
 迷ったが、焚火は消すことにした。石で囲んであるが怨霊がどういう反応を起こすか分からない以上、山火事にでもなったら最悪だ。

「清白、これを」

 葛葉が彼の固い掌に握らせたのは琥珀の指飾りだった。刑部姫がくれたもので、毒気を吸収して周りを清める術が施されている。いかに穢れに強くとも一番怨霊に近づくであろう彼に使ってほしかった。
 清白が固辞するので、強引に手を取って嵌めてやる。普段葛葉は左手の中指につけているのだが、清白の手は意外と節くれだっており小指にちょうどよく収まった。
 いつもお守り代わりに懐に入れている銀紗の面覆いは、リッカに身に着けてもらうことにした。目視の距離まで怨霊に近づくのだから、多少なりとも穢れを防ぐ道具があるに越したことはない。
 場所が見晴らしの良い丘などであれば、もっと離れていても瑞宝の効果が及んだであろう。けれど、あいにく森のただ中である。月明かりも頼りなく、夜明けは近いが今少しの間がある。

「来るぞ!」

 頭上から、今まで聞いたことのない雲取の切迫した声が降ってくる。
 不気味な静寂に浸された森。
 梢の葉が、風もないのに大きくざわめいた。
 聞こえる。みどりの大地が声なき悲鳴を上げている。
 幾重にも引き裂かれて力を吸い取られた土地の気脈が、渇いて固まり、みるみるうちにひび割れていく。
 と同時に、重苦しい穢れが絡まりあって密度を増し、淀んだ瘴気となって辺りに滲み込むのが感じられた。

(これは……あまりにも惨い)

 思い知った。
 初めて目の当たりにする『それ』は、日常の地続きにあるわけではないのだ、と。
 そのような生易しいものではあり得ないということを、骨身に染みて理解したのは今この瞬間だった。

 全ての生命の天敵。
 無意識の言葉がぽつりと転がり落ち、葛葉の心を噛んだ。
 異質だった。以前遭遇した獣人など比べものにならない。存在するだけで周囲一帯が異界に変じてしまうような、根源的な畏怖すら覚える。
 全身が、支配されそうになる。
 息が苦しい。喉が詰まるようだ。上空で蜂ノ羽衣を打ち振る雲取の姿が見えた。
 最前線では清白が低木の枝を次々と切り落としている。少しでも見通しを確保するためだろう。
 刀身がきらめき、いつの間にか月光が差し込んできたことに気がついた。

(落ち着け。深呼吸は二つ。視界を広く。集中しろ)

 人妖ほど頑丈でない人間の身で、清白はできることをしてくれている。それも誰よりも怨霊の近くで。
 見慣れた背中を視野の中心に収めると、ようやっと腹が据わった。
 やることは決まっている。威力の大きい攻撃術だ。範囲を絞って余波は少なく。錐で穿つように。

 吹きつけるようだった瘴気が薄れ、清涼な風がすうっと通り抜けた気がした。
 瑞宝の神威だ。古より受け継がれる神々の遺産は、必要なときだけその力を発揮する。木霊たちの言い伝えのとおりだった。
 リッカによって檻の術はすでに地面に仕掛けられ、発動の引き金を待っている。
 「来た!」清白が叫んだ。リッカの、引いては葛葉の攻撃軌道を妨げない位置で愛刀を構えている。

 夜明け前の闇が、押し寄せる。

 ──気づかれた(・・・・・)

 怨霊がこちらの存在を認識した。確信が全身を貫く。目に見える変化はないというのに平手打ちのような実感だった。
 本体は見えない。重く濃い、おぞましい霧のような瘴気が立ち込めて、どのような姿かたちをしているのか判然としないのだ。
 前方でリッカがより深く身構える。葛葉と同じく、湧き上がる本能的な恐怖に耐えているに違いない。意志の力だけでどうにか払拭できるものではなかった。
 震える身体を叱咤し、懸命に恐れをねじ伏せて、葛葉はでき得る限りの速度と精度でもって妖術を編み上げていく。
 リッカが蛇ノ紗布を突き出した。今や瑞宝は神々しくも柔らかな光を宿し、リッカの後姿が荘厳な輝きに縁取られる。
 雲取の振る蜂ノ羽衣がこちらへの影響を防いでいるが、怨霊を取り巻く毒々しい瘴気を引き剥がすまでには至っていない。少しずつ清められているのは確かである。しかしあまり接近しては生命力を根こそぎ吸われかねない。
 正体があきらかでないが、蛇ノ紗布はうまく効いてくれるのか。
 緊張が走る。
 と、迫り来る重圧が静止した。怨霊が動きを止めたのだ。

「効いた! っ、けど、ものすごい反発……だめ、長くは保たない! いくわよ葛葉!」
「いつでも」

 端的に応え、深呼吸をもうひとつ。
 惜しみなく全身の妖力を込める。発動は一瞬だ。袖がはためき髪は躍りあがる。
 脳裏に引き絞った剛弓を思い浮かべた。
 空を切り裂き、岩をも撃ち抜く、ほうき星のような征矢(そや)
 とびきり研ぎ澄ました一撃を、葛葉は怨霊めがけて射ち出した。
 反動で均衡を失った身体がたたらを踏むが構ってなどいられない。
 熾烈な攻撃術が瘴気の厚い裳裾を吹き散らし、狙い過たずに直撃する様を、わずかな刹那に葛葉は確かに見た。

 そこへリッカの仕掛けた術が畳みかける。
 八方向の地面から伸びた光の帯が怨霊を囲い、またたく間に牢檻となって閉じ込めた──かに思われた。
 息を呑んだのはほんの一時。葛葉が体勢を立て直したときにはすでに背筋が凍りついていた。
 違和感、いや危機感だ。
 攻撃は貫通して後方の木立を打ち倒すだろうという予測に反し、周囲に被害はほとんどなかった。葛葉の渾身の妖術は怨霊を大きく削り取って、しかし突き抜けずに束の間そこへ留まったのだ。
 呆気にとられる暇などなかった。リッカの罠はまだ閉じていない。
 怨霊が急激に膨れ上がった。
 びりびりと震える空気。
 清白が鋭く警告の声を上げる。

「喰われた──逃げろ!!」

 喰われた。吸収された?
 いや攻撃は効いていた。なのになぜ?
 怨霊は混乱する一同を待ってはくれなかった。今まさに完成しようとしていたリッカの檻を引き千切り、呑み込み、ますます増殖した力でもって威圧する。
 それまでとは比較にならない瘴気がぶわりと噴き出した。
 まるで寝物語に聞いた『煙火を噴く御山』のようではないか。石つぶての雨を降らせ灼熱の雪崩を起こすという火の山。
 葛葉は乳母の話を思い起こしながら、どこか遠くに雲取の悲鳴を聞いた。「無理、もうむり──ッ!!」
 嵐のような毒の風に追い立てられるようにしてリッカが走り出す。清白に腕を引かれ、葛葉も続いて足を踏み出した。
 背後で不吉な気配がひときわ強まり、不意に弾けた。


 *


 その後の記憶はない。
 音もなく押し寄せた怨霊の力に吹き飛ばされて、次に目覚めたときには見知らぬ場所で倒れ伏していた。
 全身がひどく重い。頭がぐらぐらする。
 とりあえず寝返りを打って仰向けになると、まず目に入ったのは茜色の空だ。
 朝焼けではなかった。まだ夜明け前だったはずなのに、世界はすでに夕暮れに染まりかけていた。
 横たわったまま、葛葉は茫然と黄昏を見つめるしかなかった。


 END