予感 (1)
白い月が、濃藍の夜空を円形に切り取って輝いている。
月それ自体が光を放っているのではないと知りつつも、なお感動を覚えずにはいられない。美しく匂い立つような夜景だった。
寄せては返す潮騒が心地よい。海岸線は緩く弧を描き、遠く闇の彼方へと伸びている。黒々とした水面は穏やかで、月光を映してきらめいていた。
静かな夜だ。波間からひょっこりと可憐な人魚が顔を覗かせるにふさわしい、幻惑的な空間だった。
その静寂の中、波打ちぎわの砂浜に、突如としていくつかの人影が生まれた。
三人の東洋人。
いや、少し離れた場所にもう一人。月下に燦然とひるがえる長い金髪が、中世の騎士たちを戦場で奮い立たせたという王旗のようだ。顔立ちは涼しげだが、今は切なそうにその目元が曇っていた。
立ち尽くすその青年を含めて、合計四人。
東洋人の三人は二対一に分かれて対峙しており、その間にはひどく緊張した空気が横たわっているのが遠目にも明らかだった。
一触即発。
誰もが無言。
たった一人で武装した男たちと向かい合っている娘が、ゆっくりと桜色の唇を開き、何事かを短く呟いた。
聞き取れない。英語でもドイツ語でもなかった。
彼女は短剣のような武器を鞘ごと無造作にひっさげて、しなやかそうな身体を黒装束に包んでいる。闇に溶け込む漆黒と、耳元で遠慮がちに光を弾く銀のピアス。
風が一条、娘の傍らを通り過ぎていった。
ひとたび焦点を合わせてしまうと、もはや彼女から視線をそらすことなどできなかった。まるで人ならぬ存在と化した“何か”を間近に見ているようで、吸い寄せられて、目が離せない。
鋼の強さと、刀の鋭さと、氷の冷厳さとが、そこには同時にあった。
長いストレートの黒髪が潮風に揺れる。
娘が跳んだ。予備動作もなく唐突に。
一瞬の交錯。
娘は、そう、確かにただ者ではなかった。
牽制のように打ち込まれる銃弾を疾駆しながら難なくかわす。
同時に、鋭い呼気と共に斜め方向から突進してきた男の拳を、半歩移動するだけでさらりと避ける。すれ違いざま、無防備に空いた男の腹めがけて膝の一撃。
男はひとたまりもない。握り込んでいた仕込み針が砂浜に転がり、ぬらりと不気味に光った。
声すらなく崩れ落ちた男には目もくれず、娘はさらに走る。その先には、硝煙を上げる拳銃を構えたもう一人の男の姿。
発砲・発砲・発砲。地面に着弾した銃撃が砂を舞い上げ、瞬く間に視界を覆う。
二つの人影が最接近した直後、男の口からうめき声が漏れた。拳銃を跳ね上げられ、鞭のごとき手刀を食らって大きくよろめいたのである。
続く流麗な一撃で、拳銃の男が地に沈む。
あっという間の出来事だった。思わず目を疑わずにはいられないほどに。
武器を携えた男が二人がかりだというのに、赤子のように易々と打ち据えられて起き上がれずにいる。
娘の身体さばきは、まったく見事に鮮やかで、しかも精確だった。自分の肉体がどんなふうに使えるかを熟知しているからこそ、こんなにも力強く賢い動きができるに違いなかった。
戦闘術に長けた者が見たなら、こう評することだろう。『訓練』を受けた者の動きだ、と。
彼女の怜悧な立ち姿からは、辺りを祓い清める威厳さえ漂ってくるかのようだった。
「何をする気だ、よせ!」
不意にドイツ語の悲鳴が上がった。
よく知った声だ。聞き慣れた男の声。だからこそ、予想外だった。
ローゼンクランツ。長く艶やかな金髪と碧眼を持った、古き良き貴顕社会の御曹司。同じ部隊に所属して活動を共にしているが、未だかつてこれほど余裕を欠いた彼の声など耳にしたことがない。
ローゼンクランツの意識は、舞踏さながらに二人の東洋人を打ち倒した黒髪の娘に向けられているようだった。
抜き身の刃。
ひと筋の月光も弾かぬ沈黙の白刃が、彼女の手の中にある。
つい今しがたまで鞘に収まっていたはずの鋭利な刃が、闇に同化して忽然とそこに現れていた。
おそらくあの刃物は“錐刀”だ。密殺用に、突き刺すために創り出されたという特殊な武器。
娘の腕に力がこもる。まるで綿密に組み上げられたプログラムに従うかのように、ごく自然に。
逆手に握られた凶器。誰も動けない。一瞬の静寂。
「よせ、ユキ──!!」
悲痛な咆哮と、必殺の刃が突き立てたられたのと。
まったく同時だった。
身じろぎもせず絶句する男たちの前で、苦悶の吐息を押し殺して、わずかに娘の表情が歪む。
錐刀は左胸あたりを貫いていた。
なのに、彼女のあの透徹した眼差しはどうだろう。頬に伝う穏やかな涙。全てを知り、赦し、諦め、そうして全てを与える殉難の聖女さながらではないか。
波間が青銀にきらめき、小さな水しぶきが月夜に舞う。雫の一粒ひとつぶまではっきり識別できるほどの、冴え冴えたる月明かり。
荒くうねる波濤にかき消され、末期の言葉は届かない。
強まりゆく風。潮が満ちる。
どこまでも続く大海原が、ささやきかけるように、娘をやさしく腕の中に抱き寄せた。
潮風から逃れた長い黒髪は、海中に解き放たれてゆるゆると広がっていく。少女の姿が覆い隠される。
導かれるままに、ほんのりと安心したように、彼女は光のない水底へと連れ去られていった。
*
誰かに呼ばれた気がして、シュナイツァーはゆるりと顔を上げた。
遠ざかる潮騒と月光。哀しげな面影が揺らめきながら消える。
幻の情景に絡め取られていた五感を強引に引き戻し、意識を目の前にある現実風景に向けた。
水中から引き上げられたように明瞭になった視野の中に飛び込んできたのは、光を弾いて輝く金髪だった。無造作に束ねられた朝陽色の髪は青年の背中へと流れ、同色の睫毛に縁取られた碧眼が優雅にこちらを見据えている。
互いによく見知った顔だった。シュリッツ・リヒト・フォン・ローゼンクランツ。シュナイツァーの『同僚』である。
「何か面白いものは観えたか、シュナイツァー?」
「……ああ、観えたとも。ローゼンクランツ」
窓から差し込む光がまぶしい。
まばたきを繰り返しながら、シュナイツァーは目の前に佇む青年を見据えた。若獅子のように悠然たる空気を纏う、生粋のドイツ人。
幻の中で聞いた悲痛な叫び声が、まだ耳の奥に残っている。
あれは確かにローゼンクランツに違いなかった。顔も声もはっきりと識別できたのだから断言できる。
そしてもうひとつ断言すれば、あの月明かりの浜辺で起こった不可解な出来事は、これから訪れる未来の一場面だ。ローゼンクランツが辿るであろう道の、さして遠くない、とある定点。
先程まで傍観していたリアルで精緻な光景を、さあ、どう語ったらいいのだろうか。
『ここではないどこか、今ではないいつか』──未来を観ることが、シュナイツァーの生まれ持った特異な力である。
物心ついたときには、その力はすでに困惑の物種だった。彼自身にとっても、周囲の者にとっても。
ときどき発作のようにして迫真の異空間に陥って、機嫌良く絵を描いていた手がぴたりと動きを止める。幻から現実に立ち返ったあとは、心理状態に波紋が及んで情動のコントロールができない。結果として幼い頃のシュナイツァーは、ひどく気難しく扱いにくい子どもに他ならなかった。
成長と共に自我が確立した今は、夢から醒めたあとまで幻影に引きずられてしまうことはないが、それでも未来視の発動は生理現象に近く、ある程度は抑えられても完全に打ち消すことは不可能だ。しかも周期がまちまちで、一体いつ押し寄せてくるのか全く予測ができなかった。
自在に操ることも、拒むこともできない力など、不治の病のようなものだ。それに慣れて上手く付き合っていくしかない。
二十一世紀に突入した現在、世の中にはシュナイツァーのように特殊な能力を備えた者が多数存在していた。
ローゼンクランツや、窓際で退屈そうに頬杖をついてい夏木 有瀬もそうだ。種類は違えど、他人にはない特殊で強力な能力を生まれつき備えているという点が、この部屋にいる三人の共通事項だった。