笑って 走って
怒って 躍って
演じるは主役
さあ 幕を上げて
アタシの舞台が始まる
──… * * * …──
『真夏の夢』
流麗な字体が目に入った。
題の下には、涼やかな満月を背景に手を取り合った男女の影絵が描かれている。
演劇の宣伝用チラシ。同じものが一掴みごとに束ねられ、積み上げられてティキュの視界を占拠していた。
「ちょっと刷りすぎじゃないの?」
呆れ半分、喜色半分。ティキュに問いかけられた宣伝係は、「そんなコトありませんって!」と誇らしげに小鼻をふくらませた。
それはこの夏、ティキュが主役を演じる予定の劇だった。
原作は、数十年前に出版された小説。特に中高年層に支持され、演劇化が長年待ち望まれた名作である。
大公国でも一、二を争う大手劇団≪白鳥庭園≫が、このたびようやくその実現にこぎつけたというわけだ。
演劇化が正式に決定してからは、原作の人気も再沸騰し、再版に再版が重ねられた。
当然ながら、配役には並々ならぬ大衆の関心が寄せられて……
そんな中、主役である女精霊の役を見事獲得したのがティキュだった。
この時点で、人々の期待は一気に高まった。≪白鳥庭園≫のティキュといえば、弱冠二十歳にして実力派と評される花形役者である。
──そう、満を持しての開演だった。
──… * * * …──
花の精霊リュシエル。
実月の夜、一晩限りの自由を手に入れた人外の女性。
時に情熱的、時に天真爛漫な振舞いを見せる彼女は、泉のほとりで純朴な青年と出会い、そして恋に落ちる──
ばしゃり。
頭を洗い流すと、ティキュの髪は見事な銀月色に染まっていた。
本来の髪は茶色なのだが、役柄に合わせて染料を使うのである。
なにしろ今回は精霊の役だ。銀色に揺らめく長い髪は、ひときわ神秘的に輝いていた。
「ティキュさん、そのままこちらへ」
導かれるまま特大の化粧鏡の前に腰かける。手際良く髪を乾かし、丹念に櫛を入れていくのは専門の整髪係。
続いて化粧係が仕事を始める。
舞台照明に映えるようにと、目や口元が鮮やかに彩られていく。
ティキュは黙って目を閉じたまま、身じろぎもしない。
その黒瞳が再び光を映す時──それは『花の精霊リュシエル』が小説の中からするりと抜け出し、現実世界へと顕現する瞬間だ。
柔らかなひだが無数に揺れる舞台衣装を身に纏い、ティキュはリュシエルへと変わっていく。外見も心も。
今この瞬間、全身全霊でもって女精霊になりきるのだ。
他の全てを忘れ、観衆もろとも夢の世界へと入り込む。
照明が快い。
台詞を口ずさむたびに心が高揚する。
ティキュは天性の役者だった。
「お疲れ様です!」
「ティキュさん、物凄い量の花束が届いてますよ!」
初回公演は公都リィザの城下で行われた。
前評判が高かったせいか、満席の上に立ち見の人々も溢れ返るという反響ぶりだった。
そして今、観客全員が立ち上がって割れんばかりの拍手を続けている。
──成功だった。
最後に役者たちが一礼し、舞台裏へ下がってしまっても、万雷の拍手は鳴り止む気配がない。
ティキュは弾む息もそのままに、舞台仲間たちを次々と抱擁した。
あの顔にもこの顔にも笑顔、笑顔、笑顔。
裏方を担当する者たちには、ことさら感謝の意を込めて抱きつく。
ティキュの輝かんばかりの笑みを見て、劇団の誰もが改めて大成功をかみしめた。
おりしも時期は、キリエ大公陛下が即位されてからまだ間もない。祝賀雰囲気に加えて、城下はより一層華やかに沸き立っていた。