十年。
言葉にしてしまえばたった一言で済むけれど、セレシアスにとってはひどく複雑な、例えようもなく重みのある年月だった。幾千幾万の語句を費やしても表現しきれないほどに。
──あれから、十年。
『彼女』と離れてから四季が十回も巡ったのだ。
十二歳の混血児、しかも銀髪に桜色の瞳という異相。生き長らえることは難しいだろうと、悲観ではなく客観的事実として考えていたのに。
こうして大人になった今、ふとした拍子に事実を再認識しては、そのつど信じがたいに襲われるのだった。
──… * * * …──
靴先で、水滴が弾けた。
昼下がりの通り雨が石畳に残していった小さな水たまり。表面には繊細な波紋が浮かんでいる。
顔を上げれば、路傍の花壇に伸びた苗の、葉先に光る透明な雫が目にまばゆい。
熱月。夏の気配を色濃く宿した風が、気まぐれにセレシアスの頬をくすぐっていく。
北方に位置する大公国の夏は比較的短く、過ごしやすい。とりわけ熱月に入ったばかりのこの時期は、屋外でのんびりくつろぐ人々の姿も多く見られる。詩集片手に芝生の木陰で寝転ぶ青年、陽射しに目を細めながら腕を組んで歩いていく老夫婦。みな思い思いに心地良い午後のひと時を味わっているようだった。
歩みをとめて深々と空気を吸い込むと、ほのかな潮の香りをかいだ気がした。
(そうか、海が)
潮騒はこの町なかまで聞こえようはずもないけれど、風向きによっては匂いが届くのだ。
学究都市ブリュメールにほど近い、のどかな東海岸沿いのまち。公都リィザを出てセージ河を越え、ミルザム伯爵が都督を務める東部を北東方向に進むと行き当たる土地である。
今は石畳が敷かれて広く整えられているこの大通りが、かつては砂礫を踏み固めただけの粗末な小路だったことを、セレシアスはよく知っていた。二つ向こうの通りの露店で売っている、甘辛いタレを絡めた白身魚の揚げ物がとても美味しいことも。
(けっこう変わったな)
乗合馬車が行き交い、店頭で客を出迎える給仕娘の明るい声が響く。ゆったりと歩きながら見渡すと、さすがに見覚えのない店舗や看板が多いが、記憶にある姿そのままの佇まいを残した場所も点々と見受けられた。
いくつもの風景が懐かしく思い起こされる。
短い間ではあったけれど、昔この町の郊外でひっそりと暮らしていた頃のこと。そして十年前、旅の途中に立ち寄ったときのことも。
鋭い痛みが、不意にセレシアスの胸を突いた。
思わず心臓のあたりを押さえて立ち止まってしまう。まるで光の錐で刺し貫かれたように鋭利な、灼けつく痛み。
それは懐かしくも馴染み深い……繰り返しセレシアスを苛んで長いあいだ胸に留まり続けている、旧い友のような痛みだった。
脳裏に炙り出されたのは遠い情景。哀しみに彩られた記憶だった。
そこに渦巻いていたいくつもの複雑な感情が、満ちる海水のようにまたたく間に足下に押し寄せてくる。手を伸ばせば、胸が張り裂けて血が零れ落ちそうだったあの想いを、いとも容易く当時のまま掬い取ることができるのだった。