ファンタジースキーさんに100のお題

027. 昏き理 (1)


 月のない晩だった。
 闇は黒々と深く、昇る陽はまだ決定的に遠い。ぬるんだ深夜の風が、街路を撫でるように渡っていく。

 ノートパソコンの白光を受けて、耳にインカムを装着した少女の顔が車内にぼんやりと浮かび上がった。
 その顔面に表情は一切ない。丑三つ時に車の中に一人きりという状況で、懐には必殺の暗器を忍ばせているというのに、隠し切れなくても当然の緊張感すら漏らすことがなかった。ただ鉄の仮面のように無表情。それが暗殺任務に臨む彼女の常である。
 動きやすさを重視した作業服に、全身をきっちりと包んでいる。もちろんその色合いは闇に溶け込む漆黒。キーボードの上で躍る指先の白さだけが際立っていた。

 その車輌は一見したところ、ごくありふれたワンボックスカーが物陰にひっそりと停まっているようにしか思えないが、今は全ての車窓が用心深く遮光カーテンで覆われており、中を覗くことはできない。
 車内には異様な光景が広がっていた。パソコンやモニターをはじめとした電子機器が、倒された座席の上にところ狭しと置かれているのだ。エアコンが低温に設定されているのは装置類の冷却のためだろうか。ハイテク機器のいずれもがケーブルやコードで複雑に繋がれて、かすかな駆動音を立てていた。

 その中央。機械類に囲まれた黒装束の少女が、一人でいくつもの作業を行っているのである。
 慣れた手つきで画面をチェックし、音量を絞り、システムを立ち上げる。めまぐるしく切り替わる画面ディスプレイ。緩やかに明滅する大小の光点。一つのモニターには邸宅の精緻な見取り図が呼び出され、別のパソコンには難解なプログラム言語が高速で流れていく。太腿の上に乗せたノートパソコンから整然と鳴る電子音は、注入したコマンドが順当に読み込まれた合図だ。

 今回の標的人物は、国内でも最大手の警備会社を使って自邸にセキュリティシステムを敷いていた。
 常時接続のセンサーで住宅内を監視し、何らかの異常が検知された場合、警備会社の所定の通知先に警報を発する。警報を受けた警備会社はすぐさまスタッフを現場に派遣すると共に、必要によって警察や消防署に連絡をする、というものである。どちらかというと火災感知や空き巣防止のための、ごくスタンダードな仕組みだった。
 無論、これから邸宅に侵入して無法を働こうとする少女にとっては、捨て置くことのできない邪魔なシステムには違いない。極秘裏の任務に目撃者がいてはならないが、さりとて目撃者の口封じなどという過分の流血はご法度なのである。

 そこで少女──地下組織≪桜花≫の暗殺班リーダーであるエーデルワイスは、他の追随を許さないその怪物じみた技能を駆使し、わずらわしいセキュリティシステムを無効化させてしまうことに決めたのだった。

 まず、特殊に組み上げられた回線侵入のプログラムを起動させ、標的が契約している警備会社のセキュリティシステムに電話回線を通じてアクセスする。常時接続で邸宅を監視する専用回線を遮断し、同時に少女が入念に組み上げた擬似回線システムへと接続させる。
 侵入。シャットダウン、アクセス誘導、接続。さらに別システムをかぶせて書き換えの痕跡を綺麗に覆う。モニターのほの白い明かりの中、少女はあちこちの機器を手足のように使い、一連の作業を滞りなく済ませていった。車内に配置されたどの機械も問題なく作動し、それぞれの仕事をこなしている。
 これで監視センサーは沈黙したも同然だ。警備会社も邸宅の主も、セキュリティシステムが改竄(クラッキング)されたことに気づかないだろう。
 少女はヘッドフォンから伸びたマイク部分に指を添え、短く囁いた。

「セキュリティシステム、クリア。──始めます」


 *


「じゃあ今日はここまで。ちゃんと復習しておいてね」

 人柄がにじみ出ているようなのどかな足取りで、定年間際の数学教師が教室から出ていった直後。

「ねえユキ、放課後マック行こうよー」
「金曜だし、今日は課外授業ないっしょ?」

 近くの席の友人たちに話を振られて、雪は視線を上に向けて何かを思い出す素振りを見せたあと、いかにも残念そうな声でうめいた。

「ごめん。今日はバイトが入ってるんだ」
「えー。そっかぁ、またベビーシッター?」
「残念だな。今度の新メニュー美味しいのにぃ」

 断りの文句を述べた雪の仕草といい口調といい、いかにも女子高生が友達と遊べなくて残念だという雰囲気が、ごく自然に発せられている。
 雪に家族がいないことを知っているクラスメイトは、『知り合いの家で子守のバイトをしている』という雪の嘘を素直に信じてくれており、バイトを口実にすればしつこく誘ってくるようなことはない。
 担任や生徒指導の教員はもちろん、親しげに言葉を交わす女子グループすら、誰一人として彼女の言葉を疑う様子がなかった。

 本当は、任務だった。
 都内の一部地域に急速に出回った『ミドリ』というドラッグの、元締めを探り出す潜入調査。≪桜花≫の別働隊が掴んだ情報をもとに、一般人を装って売買仲介人と接触し、情報の裏付けを取るのである。
 任務といっても、これは本来なら調査班の専任者たちが当たるべきジャンルのものだ。情報収集、調査、囮、破壊、暗殺。ダーティな仕事は数あれど、「肉は肉屋、魚は魚屋」という方針が≪桜花≫には確固として存在しているのだから。

 けれど雪──エーデルワイスだけが例外だった。首領ヒイラギの懐刀として、指令があれば縦横無尽になんでも手がける。いついかなる時も、どんな汚れ仕事でも、ひとかけらの躊躇いもなく。

「また今度誘ってね」

 胸中にほんのり宿ったのは、寂寥感。
 いつもどおり完全にそれを押し包んで、雪が曖昧な微笑を浮かべると、同級生たちは口々に朗らかな返事をくれる。
 そしていつの間にか話題は英作文の課題のことへと移り、他愛ないお喋りは休み時間が終わるまで賑やかに続く。
 会話に適度に参加しながら、雪はクラスメイトたちの顔をどこか遠くのもののように見つめていた。近くにいるようでも自分とは絶対的に隔たりがある、同い年の少女たち。

 かげりのない彼女らの笑顔が、ひどくまぶしかった。