030. 不浄なる痕 (2)
「よう、聞いてんのか?」
「相わかった。ここを通るには、その『通行料』とやらを、そなたらに渡せばよいのじゃな」
目深にかぶった編み笠で顔を隠したまま、葛葉は背嚢を探った。出立のときは無一文だったが、「人間の集落に立ち寄れば、色々と金品が要り用になるでしょう」と刑部姫が気遣って、殿舎の宝物類を持たせてくれたのだ。
とはいえ、現金の持ち合わせはさして多くない。葛葉の懐に今あるのは、せいぜいが一晩の宿代程度だった。路銀の大部分を握っているのは清白だし、刑部姫のくれた財宝は持ち運びしやすい珠玉や細工物ばかりで、みちみちの町で少しずつ換金していくつもりだったからである。旅人の身でまとまった大金を持ち歩くのは危険だ、というのが清白の言。
そもそも人妖は通貨を用いることなどほとんどない生活をしているものだし、おまけに葛葉は城育ちだ。相場だの値切り方だのはもちろんのこと、金銭感覚というもの自体が人間の庶民とは大きく隔たっている。その事実が発覚して以降、路銀の管理は暗黙の了解で清白の領分となったのだった。
だから、もしここに清白が居合わせていたら、葛葉の次の一言に目を剥いたに違いない。
「銅一枚で足りるかえ?」
彼女ののんきな問いかけに、男たちはどよめいた。銅一枚といえば、大人四人が高級料理を腹いっぱい飲み食いできる額である。それを『通行料』として惜しげもなく出すなんて、よほどの世間知らずか金持ちか、あるいは後ろ暗い事情を抱えているか。いずれにせよ格好の標的に他ならない。
男たちは一瞬互いに顔を見合わせて、にやりと笑った。獲物を罠にはめようとする狡猾な表情だ。しかし葛葉にその意図を読み取ることなど、できるはずもなかった。
「ああ、もちろん充分さ。釣り銭が必要なくらいだぜ。けど、さあて弱ったな。あいにく今は小銭を切らしちまってるんだよ」
さて困った、という仕草を見せてから、やおら男の一人が声を張り上げた。
「じゃあ、やっぱりあんたをふもとの里まで送っていこう」
「それがいいな。オレたちは近道を知ってるぜ。釣り銭代わりに教えてやるよ」
「いやいやいや、遠慮はいらねえ。そうと決まったらさっそく出発だ。じゃねえと日が暮れちまうぞ」
「おっと、その背嚢をよこしな。あんたみたいな細腕の別嬪さんにゃ重いだろう。俺たちが持っててやるからよ」
人里離れた山中で、粗野な風体の男衆にこうして口々にたたみかけられたのでは、もはや脅迫や恫喝に近いものがある。彼らがいかに笑顔を浮かべていようとも、腰に佩いた刀の柄に手を触れているのだから尚更だ。
「いや、この荷は肩代わりしてもらわずともよい。手を離しやれ」
背嚢を取り上げられそうになった葛葉が少しばかり慌てた、そのとき。
「葛葉? どうし……」
茂みをかき分け、薪を抱えた清白が姿を現した。男連中に囲まれている葛葉を見て、一瞬絶句する。男たちのほうでも、まさか連れがいるとは露知らず、唖然として全員その場に凍りついた。
次に言葉を発したのは葛葉だった。
「なんじゃ清白、そうやたらに抜刀するでない。物騒じゃぞ」
「阿呆、こいつらどう見ても山賊だろうが! 早くこっちに!」
呆れ半分、緊張半分といった風情の清白に促されて、葛葉は青年のほうへと駆け寄った。いまいち状況を呑み込みきれないままであっても、人妖の脚力はさすがに並外れている。呆気に取られた男たちの囲いを容易くすり抜けた。
「チッ! おとなしく有り金出しときゃ無事に済んだものを。こうなったら二人まとめて身ぐるみ剥いでやらァ!」
我に返った一人がしゃがれ声を張り上げる。聞き取りにくい号令だったが、仲間たちには充分伝わったようだ。刃物を手に手に、一斉に襲いかかってくる。
「なんじゃ、こやつら。ならず者かえ? 通行料を払えと言うておったが」
「それが手口なんだろうよ。普通の商い業者はまず滅多に山越え道なんか通らないからな。訳ありの旅人を狙って金目のものを巻き上げる、ってとこか」
「いつ来るとも知れぬ旅人を待ち構えておるのか。なんとまあ、大儀なことじゃのう」
皮肉ではなく、むしろ感心したような口調である。
「馬鹿にしてんのか!? たった二人だってのに余裕かましやがって!」
「おや、怒らせてしもうたか。人間というのはほんに不思議じゃわ」
「……俺にはあんたのほうがよっぽど不思議だよ」
清白は嘆いた。
そこへ振り下ろされる白刃。切っ先は勢い任せに空を斬った。二人が同時に左右へ散って避けたのである。
「血の気の多い奴らじゃ」
夕陽に照らされた刀身は、ところどころ汚れている上に刃こぼれしていた。手入れが悪い。清白が顔をしかめるのが見えた。愛刀の点検と整備を欠かさない彼からしたら、刀が粗雑に扱われているのは目に余るのだろう。
清白が身構える。逆刃。一番に斬りかかってきた男の太刀を弾き飛ばす。峰打ちをしたたか食らわせたあとは、あっという間に乱闘となった。
二人対八人である。山賊たちは頭数を恃んで囲もうとしてくる。その動きにためらいはない。何度も追い剥ぎを繰り返しているのだろう。
しかしすぐに焦りの表情を浮かべたのは山賊のほうだった。清白の振るう剣に、まるで歯が立たないのである。
旅装束の青年は猛進するでもなく、かといって防戦一方でもない。相手の突きを刃先で巻き取り、いなす。静かな気迫。狙い澄まされた剣筋。斬撃を受け止めるのではなく、しゃらりと受け流して、さらにその流れを利用し反撃する。山賊はみるみるうちに打ち倒されていった。
「清白は強いのう」
無邪気に声を上げる葛葉とて、のんびり観戦しているわけではない。薙ぐ。跳ぶ。軽やかな身体さばきで敵を翻弄し、鉄扇を閃かせて確実に人数を減らしている。
土埃。苦悶の声。
不意に、風が吹き抜けた。木の葉が舞い散る。
夜闇が染み込み始めた黄昏時の冷風は、葛葉の編み笠をいたずらに取り上げた。覆い隠されていた素顔が、衆目にさらされる。
「ひぃっ……!」
「目が、あの女、目が金色に光ってやがる!?」
「ありゃ人じゃねえ、人妖だ!」
山賊連中に激しい動揺が走った。暮れなずむ深い山の中、一同は葛葉の浮世離れした容姿から目をそらせなくなった。
長い銀髪は風に揺られ、うっすらと緑白の光沢を放つ絹のようだ。凛と涼やかに辺りを見渡す双眸は琥珀金。優美な絵図の施された鉄扇、それを構える手の指先に至るまで、まばゆいばかりの力と躍動感に満ちている。
旧時代の大妖、いくつもの王朝を意のままに操ったという傾国の妖后に並ぶと囁かれた葛葉の美貌である。武官のような動きやすい袴を履いた男装であっても、周囲を照らすような華やかさは損なわれることなくそこに在る。
天狐族の特徴的な耳や尾は、人間に見咎められることのないよう術を施して隠してあったが、それでも彼女の圧倒的な存在感と華やかな気配は、まさしく人外のものに他ならなかった。
人妖の住処はどの地域にも点在している。が、人間の街里とは離れた山奥や樹海、離島などで慎ましく暮らしているのが一般的で、争いごとでも起こらない限り、人間と接触することは稀である。人のかたちを取っていないモノノケの類と違って、人妖は他愛ないいたずらを人里に仕掛けて遊ぶこともない。そんな遠い存在である人妖を突如目の当たりにして、山賊たちが度肝を抜かすのも無理はなかった。
編み笠は風にさらわれて高く虚空へ舞い上がる。ふわりと大きく回転して、すぐ近くの大木の枝に引っかかった。
枝といっても、辺りに鬱蒼たる陰影を落とすような巨木である。編み笠が揺れているのは民家の屋根よりもはるかに高い位置だった。
棍棒がうなる。禿げ頭の山賊。いち早く驚愕から立ち直ったらしい。葛葉の注意が編み笠に向けられたのを好機と読んだか、渾身の力で打ちかかってくる。まともに食らえば昏倒は免れない。
清白が反射的に割って入ろうとするが、遠い。間に合わない。鈍重音が響いた。
「……いない!?」
棍棒は土をえぐっただけだった。
「まったく無粋じゃのう」
おっとりした声は、一同の頭上から響いた。
編み笠を手にした葛葉が、山賊一味を見下ろしている。ひと跳びで大樹の枝に飛び移ったのだ。驚異的な身体能力である。
茜色に溶けた太陽が本日最後の光を投げかけてくる中、葛葉はひときわ艶やかに微笑んだ。
「いかにも、妾は人間にあらず。使命を帯びての道行きゆえ、取り立てて荒事を起こす気なぞありはせぬ。されど、おぬしらが引き下がらぬというならば致し方あるまい、お相手つかまつろうぞ。明日の暁を拝めぬことになろうとも、それでよいのじゃな」
途端、音を立てて炎が生まれた。忍び寄る夕闇を押し返すように、無数の蒼い火の玉が緩やかな螺旋を描いて葛葉の周りに躍る。異口同音の悲鳴。山賊たちが発した恐怖の叫びである。
狐火に照らされながら葛葉はうっすらと燐光を放ち、扇の端から見え隠れする笑みがいっそう深みと迫力を増す。凄絶なまでの存在感。清白ですら、思わず我を忘れて樹上の葛葉に見入ったほどだった。
「やれ、一度しか申さぬぞえ。警告されてなおも向かってくる輩には一切容赦せぬゆえ──命惜しくば、早う退くがよい」
火の玉が一段と激しく燃え盛る。轟々たる熱風に肌を圧され、盗賊連中は震え上がった。金縛りが解けるや否や、一目散に逃げ惑う。押し合いへし合い、先を争いつつあっという間に全員がその場から姿を消した。
あとに残ったのは呆れたように佇む清白と、闇夜の衣をふんわり纏いはじめた山景色のみ。
葛葉は声を荒げることもなく賊徒を退散させたのだった。