034. 迷いの森の守護者 (1)
獣人の襲撃から一夜明けて。
葛葉と清白おまけに雲取の三人は、鬱蒼とした森の奥深くへと分け入って行った。
刑部姫が持たせてくれた覚え書きによると、この森を越えた先に火明の里があるらしい。一刻も早く、と逸る気持ちをなだめつつ葛葉は歩を進めるのだった。
辺りの木々はどれも悠然と幹太く、葉も艶やかに青い。頭上を覆い隠さんばかりに茂っている。
踏みしめた足元から、土の匂いがかかすに漂った。キノコや野草が豊富に採れそうな森だ。
けれど。
「……いやに静かじゃのう」
時折風が木の葉を揺らす他は、静まり返っているのだ。こういう人里離れた地を好むモノノケたちの声も、鳥のさえずりすらも聞こえない。
ここに着くまでに見てきた、怨霊の毒気で死に絶えた地を思い起こしたが、あれとはまた決定的に違う。この土地は生きている。
まるで森そのものが息を潜めているかのように、奇妙な静寂に浸されていた。
「あー、確かになんか静かすぎるかも。大概こういうトコにゃ、木霊やら鵺なんかが住み着いてるもんなんだけどな」
雲取もぶつぶつ言いながら首を傾げている。違和感を拭えないのだろう。
「そうか。気をつけて進もう」
清白が端的にまとめて周囲を見回した。葛葉も念のためにと浄天眼を使って確認してみたが、目に見える脅威はなかった。今のところは。
重なるように濃く生い茂った木々で空は見えない。ところどころの合間から、朝の陽射しがわずかに差し込んでくるだけだ。
森の広げた腕にすっぽりと包み込まれたような心地がする。
梢を見上げていた視線を戻して──葛葉はうろたえた。
ひどく濃い、霧に、周囲ごと取り巻かれていた。
足元さえろくに見えない。ほんの今さっきまでなんともなかったのに。
いつの間に、と驚くよりも先に不安が兆した。清白と雲取の姿も霧に紛れて見当たらない。
「清白ー? 何やら急にえらい霧じゃのう」
応答はなかった。
ただ冷たい霧だけが静かに押し寄せてくる。
「清白、どうかしたのかえ? 返事をしやれ。そこにおるのじゃろ?」
伸ばした手は空を切った。その指先から見る間に濃霧に呑まれていく。一瞬、琥珀の指飾りが濡れた光を宿した、気がした。
「雲取、返事をせい! 清白!?」
静寂を乱す己の声。怖気が背筋を這い上がる。すぐ傍らにいるはずの二人の気配が、忽然と消え失せていた。
乳白色に染まった視界。誰もいない。振り返っても大声を出しても、独りだった。
「清白ーっ! 雲取! ……なんと。どこへ行きよったのじゃ」
後半の呟きは我ながら弱々しい。唇から滑り出た言葉すら深い朝霧に吸い込まれ、葛葉は立ち尽くした。
*
「面妖な霧だな。さて困ったぞ」
清白は戸惑いを隠せなかった。いきなり霧がたちこめてきたかと思ったら、今の今まで一緒にいた葛葉と雲取がいなくなってしまったのだ。いくら呼んでも応えはなく、手探りで周囲を調べても霧の中に樹木がそびえているばかり。一体何が起こったのか、わけが分からない。
静まり返った森の片隅に、たった独りで取り残されたような錯覚。雲取のやかましさに慣れかけていたところだったせいか、静寂が少し、息苦しい。
それにしても、怨霊封じの旅に出てからこちら、鴉天狗につきまとわれたり獣人が出たり、それで今度はおかしな霧。なんとも忙しい道中だ。
と──
「まあ珍しいこと」
霧とともに忍び寄ってきたのは、湿った隙間風にも似た女人の声だった。
「あなたみたいにお若い人が、こんなところに来るなんて」
ざあ、と霧が流れる。
美しい女だった。気配もなく忽然と現れた人影は、柳のように細くたおやかで、見る者の憐憫を掻き立てる容貌をしていた。
だからこそ不気味と言えるだろう。
旅装でも男装でもなく、普段着そのものである舟型袖に細帯を締めただけの軽装で、おまけに身に纏うものすべてが白づくめ。まるで周囲の霧が寄り集まって人型を成したかのような、得体の知れない女であった。
「ねえ若武者さん、教えてほしいの」
女は、いつの間にかすぐ近くまで来ていた。
「あなた、なぜこんなところにいるのかしら」
まったく口を開かない清白の態度にも頓着せず、霧の化身のごとき女は目を細め、愉しげに問いかけてくる。
「怨霊封じなんて途方もない尻拭いを引き受けるだなんて……それほどの恩義が、本当にあったのかしら。あなたを疎んじた身内に──軍に、郷里に──ねえ……?」
「……っ!」
胸を、抉られた気がした。
歌うように紡がれる言葉が、見えない大蛇となって清白を締め上げる。
「顔色が変わった。ねえ、図星なのでしょう?」
見つけた獲物を弄ぶ、愉悦のしたたるような声だった。
「あんたは……何なんだ。一体何を知っている? なぜそんな」
「駄目よ、訊いているのは私。ねえ? 危険を冒してまで解き放たれた災厄を追う義理なんて、あなたにはないでしょう?」
「違う、俺は……、あれを解放しちまったのはうちの軍だ、だからっ」
「『うちの軍』。まああ、殊勝だこと」
女は嗤った。揶揄をたっぷりと含んだ声音で。
「その軍を指揮していたのはあなたの身内。いとも容易く進撃を命じた。天狐族の根城を攻め落とすには鎮護の石碑を壊せばいい、と。自分たちは戦場に出もせずに」
「……やめろ」
「引きかえ、あなたは一兵卒。最前線で血を流したのに……そのあなたが、甦った怨霊の後始末をするというの?」
女の含み笑いは徐々に高まり、ついに哄笑となった。
「やめろと言った」
「聞きかじった情報を鵜呑みにして、その結果、軍を壊滅させたのも、怨霊を世に放ったのも……みんなあの兄たちのせい。疎まれて、居ない者も同然だったあなたの責任ではないでしょう」
「もうやめてくれ!」
かすれた叫びを上げながら、無意識のうちに愛刀の柄尻に掌を押し当てていた自分に、清白は気づいた。
人妖か、人に化けたモノノケか。女がただの人間ではないことは明白だった。
霧が一層濃さを増す。いよいよ白く染まった渦中に、なすすべもなく押し包まれていく。何も見えない。ただ女の嘲笑う声だけが森にこだましていた。
女の声はとまらない。清白の奥深くに潜むわだかまりを炙り、じりじりと執拗に爪を立てる。
「一兵卒となり、名前すら変えて。そんなあなたが怨霊を相手に、一体何ができるというのかしら」
「うるさい……っ!」
重ねられる嘲弄。耳をふさぐことも許されずに清白はうめく。見え隠れする女を睨みつけるしかできなかった。
脳裏にありありと浮かんでくるのは、あの日見た、あの城の惨状だった。
人間も人妖もみな死に絶えて、辺り一帯に満ちていたのは凍りつくような静寂。
あんな光景を目の当たりにしてしまっては、誰の責任だとか家族との不仲だとか、そんな些末事を言ってはいられなかった。毒気を振りまき命を喰らう怨霊。解き放たれた怪異をなんとかするのは遺された者の、そう、責務だ。
毒気で倒れ伏した葛葉を介抱したときは、たしかまだ何も考えていなかった気がする。怪我をして、見知った兵士たちの死に様を見て混乱もしていた。
けれど、一族の死を知った天狐の姫が嘆くよりも怨霊封じに尽力しようとする姿を見て──自分も腹が据わったのだ。
刀を遣えるだけの自分が何を成し得るかなど、分かるわけがない。それでもこの事態を、一人果敢に往こうとする葛葉を、放っておけるはずがないではないか。
「今あんたが言ったことは……全部俺の問題だ。あんたには、関係ない」
そう告げるのが精一杯だった。
霧を纏う女を清白がまっすぐに睨み据える。と、不意に女の輪郭が崩れだした。身構える清白の前で、あっという間にするする解けて形を失い、霧と同化してしまった。
〈若武者よ。迷いなく在るならば先へと進め〉
どこからともなく響く声は先程の女のもので、けれど嘲笑の名残はまったくない。うって変わって静謐な、脳裏に忍び入ってくるような囁き声。
やがて気づいたときには、霧はすっかり消え失せていた。