047. 大ピンチ! (1)
見えない変化に真っ先に気がついたのはリッカだった。
清白と交代して火の番を受け持ってから時は平穏のうちに過ぎていき、すでに夜明けが近い。
ひんやりとした夜気の中、ときおり風に揺られて木々の葉がそよぐ。月は雲居の向こうに隠れたままだ。
森は暁闇に包まれていた。ささやかな焚火の明かりがあるせいで、かえって辺りの闇が深い。
春の夜の空気感は、もったりと滑らかな水飴に浸かっているかのような錯覚を起こさせた。
不穏な気配を察知したとき、はじめは気のせいかと思った、とリッカは後に語った。
それほどかすかな違和感だったのだ。
どこか遠くのほうから『何か』が混じり始めたような……、あるいはそれが予兆というものだったのかもしれない。
リッカはじきに異変を確信することとなる。
得体の知れない存在が、こちらへとにじり寄って来る、と。
反射的に腰を浮かして空を見上げ、周囲を見回し、顔をしかめたまま目を閉じる。
なんだあれ。呟きは口内に転がり落ちて奇妙な後味をもたらした。
かなり遠い。とてもか細い。けれど先ほどより少しだけ濃い。──近づいてきている?
あれは一体何なのか。危険があるだろうか。どの程度の?
見当がつかないからこそ黙殺できなかった。
葛葉たちは静かに寝息を立てているが、ふと気づけば辺り一帯が不自然に静まり返っていた。やはり異様である。
「何とも言えない、こう、変な気配がするわよね。どう思う? あれって何かしら」
「んむ? ちと待ちや」
リッカに起こされた葛葉は、すぐに頭をひと振りして目を覚ました。
隣では清白も起き出して不思議そうにリッカを見ている。生き物の気配に最も鋭敏なのは清白だが、特に何も感じないようだった。
葛葉は目を閉じて感覚を研ぎ澄ませた。リッカが示す方角に向けて、手を伸ばすようにして薄く力を広げていく。
土地の気脈に沿って遠くのものを感じ取る『浄天眼』という天狐の能力だ。遠見、千里眼とも呼ばれる。あまりに距離があると精度は落ちるし負担も大きくなってしまうが、最大限まで試してみればリッカの言う『何か』の情報が掴めるかもしれない。
土地の気脈──大地にあまねく張り巡らされた生命力の通い路である。
普段は目に見えない、世界を循環する大いなる力の流れ。帯状に広がり、枝分かれと合流とを無数に繰り返して命を育むもの。
その助けを借りて『視た』。
途端、理解よりも先に全身ぞっと総毛立つ。耳や尾が反射的にわなないた。
大地の力の流れを辿っていった先に『それ』はいた。
リッカの言うとおり、尋常ならざるものであることが一目で分かる。眠気など瞬時に吹き飛んだ。
脅威。捕食者。災禍そのもの。
圧倒的な異質さが胸を射抜く。『それ』を中心に気脈が大きくかき乱され、濁っているのが肌で感じられた。
まるで吹き渡る薫風の中に毒の煙がたなびき始めたような……
「怨霊じゃ」
語尾がかすれた。脳裏の紗幕が引き剥がされて凄惨な記憶が露わになる。
打ち倒された封印碑。息絶えた白碇城。穢れにまみれた空気はぬるく粘つき、人間も人妖もその死に顔は薄暗がりに沈んでいた。
あのとき現場に残されていた猛烈な瘴気と同種のものが、気脈を乱して染めている。
──こんな気配が他にあるはずがないではないか!
葛葉は固唾を飲んでさらに意識を集中した。絶えず緩やかに流れる土地の力が『それ』の周りで淀み、歪んで、墨だまりのようになりつつある箇所がある。
じわりじわりと移動している。近づいてくる。
化生。禍つもの。
今にも狼狽の声が口をついて出そうで、押し殺すには努力が必要だった。いつの間にか詰めていた息を吐きだすことでやり過ごすと、一度きつく目を閉じる。
次に視界に映ったのは清白とリッカの緊迫した表情だった。と、傍らの樹上から羽ばたき音が響く。雲取が上空へ向かったようだ。
「動いておる。おそらくこのままだと鉢合わせじゃ」
怨霊、と呟いてリッカが絶句したのは呼吸三つの間だけだった。すぐにいつもの調子を取り戻して声をかけてくる。促されるまま深く呼吸をしたところで葛葉は顔を上げた。
まだ距離がある。とりあえず落ち着いて対策を考える猶予はありそうだ。
火明一門の末裔から借り受けた瑞宝は二つ。
蜂ノ羽衣──毒気や穢れを防ぎ祓う。
蛇ノ紗布──相手の動きを抑え込む。
刑部姫の封呪の石碑は間に合わない。彼女が作る第二の殺生塚を要とした氷結封印が、現状まだ用意できないのだ。
葛葉やリッカらの妖術と清白の剣術とが、あれ相手にどこまで通用するのか。手札は乏しいがやってみなければ分からない。しかし……。
選択肢は二つにひとつだ。回避するか、対峙するか。
「動きはそう速くはなさそうね。進路を見て大きく迂回すればやり過ごせる、かも」
「追ってこない保証はない。けど、今までの情報を合わせると来ない可能性は高いように思う」
巫女と人形師の里で聞いた話では、怨霊は明確にあの里の近辺にのみ出現したという。が、力のある巫女が転化したという由縁を考えれば、それも得心がいくというものだ。
たしかに清白の意見のとおり、怨霊が意図的に葛葉たちを目指して来るとは考えにくかった。そもそも自律的な意識があるのかも不明瞭である。
怨霊を再び封じるために起ちながら一時回避など不甲斐ない。しかし準備不足は覆しようのない事実。
どうする。考えろ。最適解はどちらだ。
もう一度気脈を通して視ると、思ったよりも接近していた。
仮にこのまま太い気脈に沿って動くのなら、この森を通り山を越えて、その先は海だ。人里はほぼない。
ひょっとしたら人妖の集落はあるかもしれないが、瘴気に弱いぶん敏感にその気配を感じ取って避難するだろう。いやそれは楽観的すぎる、木霊たちのように動けない種族かもしれない……。
かといって無策に突撃しては危険すぎる。本来は荒ぶる祟り神など出くわしたら最後の災厄だ。
雲取と出会った山の手前側で、怨霊の犠牲となった女性を弔ったのが思い起こされる。干からびた惨憺たる有様だった。近づきすぎれば命を吸われてしまうのだ。
瘴気を清めて本体を縫い止めて、遠くから力の限り攻撃すれば、いくばくかでも猛威が弱まるのだろうか。
「刑部姫のお力なくば封じるのは困難じゃ。困難じゃが……おめおめと見過ごせばさらに惨い被害が出よう。せめてどうにかして勢威を削げぬものか……」
呻くような声が歯の間から漏れた。
「もしくは足止めか。一応聞くが、蛇ノ紗布で抑え込める時間は限られているんだろう?」
「そうね。どのくらい保つかなんとも言えないけど、少なくとも一昼夜なんてのは無理よ」
「交代でならどうじゃ」
「ああ、なるほど。そうね、あとは夕方特訓に使った檻。あれも試してみる価値はあるかも。
それで、その刑部姫ってのは間に合いそうなわけ?」
清白と顔を見合わせた。寝る間も惜しんで封印石と術式を作ってくれているのだが、連絡術の折り返しすらないのでまだ日数を要するとみて間違いない。
「……なら、時間稼ぎよりも力を削ぐ方向のほうが現実的よね」
「一撃離脱戦法だな。えーっとつまり、蜂ノ羽衣で毒気を無効化しつつ、蛇ノ紗布で動きを縫い止める。可能そうだったら檻に閉じ込める術もかける。で、なるべく遠距離から攻撃を撃ち込む、っていうことか」
「そ、そうじゃな。蛇ノ紗布を使うには視界に入る必要があるのよな?」
話しながら方針が決まっていく。清白とリッカの両者ともが、切迫した中でも努めて冷静であろうとしているのが伝わってくる。
葛葉は胸中で二人に感謝した。もしも一人だったら狼狽したまま考えをまとめられなかったかもしれない。
「妾が足止め役をやろう。リッカ、後ろから攻撃を頼めるかえ」
「待って、短期戦なら火力の強いあんたのほうがいいでしょ。……瑞宝って一人で二つ使えるかしら」
そこへ雲取が慌てて降りてきた。翼が逆立って膨らんでいる。
「木が邪魔で見えねえけど、もうかなり近え! 短寸の薫物が半分燃える頃にはここへ来ちまう。瘴気のかたまりが動いてるみたいなやつだぞ!」
「了解。あんたもちょっとこっち来て! 打合せ!」
すでに遠見するまでもなく気配が感じられるようになっていた。
時間がない。わあわあ騒ぎつつも手短に役割分担を決めた。
まず雲取が、空中から蜂ノ羽衣で周囲一帯の瘴気を祓う。そのまま状況に応じて浄化を続ける。
怨霊が視認できる距離になり次第、リッカが蛇ノ紗布で動きを食い止める。
そこへ葛葉が高火力の攻撃術を叩き込む。
檻の妖術はあらかじめ構成を仕込んでおき、攻撃が当たると同時にリッカが発動させる。
いかにリッカといえど瑞宝と仕掛け術の両立は負担が大きいだろうが、やむを得ない。
清白は偵察が主な役目となった。人間は穢れに強い。怨霊の様子などを確認し、状況に応じて全員に指示を出すには打ってつけというわけだ。