師の思い出
「他人と違う道を歩くというのはね、ひどく勇気が要るものよ」
と、彼女は言った。
穏やかな声だ。まるで秘境の涌き水のように青く澄んだ、透明な声。染み透るようなアルト。幼い雪は、彼女の柔和な語り口が大好きだった。
「といっても……本当の意味では、他人と全く同じ道を歩んでいる人なんて、この世にひとりもいないんだけど」
彼女が微笑んだのは気配で分かったが、顔を上げて確認はしなかった。見上げたら、あの寂しげな横顔が脳裏に焼き付いて離れなくなってしまうということを、雪は誰よりもよく知っていたから。
そう──彼女の笑顔はなぜか、笑っているのにとても悲しそうに見えた。泣き笑いにも似た表情。まるで、我が子に運命づけられた殉難の未来を悟り、静かに悲嘆する聖母のような。
「例えばマザー・テレサ。あの人を知っているでしょう?」
彼女は時として子どものように唐突な物言いをする人だった。けれど決していい加減な思いつきで喋ったりはしない人でもあった。どちらかといえば寡黙な部類に入るのかもしれない。
彼女は確固とした自分だけの世界を持っていて、その中で時間をかけてしっかりと成熟し、吟味され、洗練されたものだけが、言葉に姿を変えて外へと出てくるのだ。
口にすべき時期ではないと判断したなら、彼女はただ静かに微笑むだけで、何も語ろうとはしない。
彼女は特にそういったことに拘泥しているように思えた。
だからだろうか。彼女の話にはいつも切なくなるくらいの重みと深みが感じられた。普段やっていることは果てしなくはちゃめちゃなのに、一番深い芯のところは不器用なまでに実直な……雪が師事している三久嶋杏子とは、そういう人だった。
はい、と雪が返事をしても、師は遠い日輪に視線を投げかけたまま。目に痛いほど鮮やかな夕焼けをしばらく眺めてから、隣に座っているこちらへとようやく視線を向けてくる。
真夏の黄昏時。ひんやりとした風が、昼間さんざん紫外線にさらされた肌に心地よい。暮れなずむ日差しを真っ直ぐに浴びた彼女は、全身を柔らかな赤に染めて、おっとりと微笑んでいた。
「雪……あなたの進む道は、苦難と悲哀とに満ちているわ」
彼女がすらりと口にしたそれは、予言でも悲観でも何でもなく、他の要素が入り込む余地のない純然たる『事実』だった。
──重い。重い言葉。
「けれどあなたはそれを選んだ。自ら望んだ。
だからね、雪。これから先、どんなことがあろうとも……決して、歩き続けることを諦めては駄目よ。
分かるわね? 立ち止まってもいい。ときには逃げ出したっていい。けど……諦めて、投げ出してしまうことだけは絶対にならないわ。それだけは私が赦さない。憶えておいて」
──生きることを諦めてはいけない。強く生きなさい、雪──
それは、血を吐くほどに切実な、真摯な願いだった。
彼女の厳粛なメッセージは、その日の鮮やかな夕陽と共に、いつまでも雪の心の片隅にひっそりと息づいている。
END