番外編

獣人国のとある酒場

「シューゼ、おまえ、もう聞いたか?」

 酒場に入ってくるなり声を張り上げた男がいる。シューゼは口の中の煮魚を味わいながら声の主を見た。

「ようっ。隣、座るぜ」

 まだ宵の口だが店内には酒杯を傾ける者ばかり。一応断りを入れてから隣にどっかりと腰を下ろした男も、注文を聞きに来た給仕に当たり前のごとく強い地酒を言い付けている。やかましいほどのざわめきに満ちたこの店では、少々の大声では注目されることもなかった。
 シューゼは少し考えてから答えた。

「ああ……あれか? 天人国の刃傷沙汰」
「おうよ、それそれ! とんでもねェ話だよな。世継姫の生誕祝賀会だってのに、慶賀勅使として訪れたはずの海人国の総帥が、いきなり天人王とその息子をばっさりやっちまったってんだから」

 男はだいぶ興奮しているようだ。その証拠に、彼の尻から椅子の下へと伸びたふさふさの茶色い尾が、堪えきれないように揺れている。同じ獣人国の民でも犬系統の氏族は特に内心が分かりやすい。狐系統のシューゼにはそれが微笑ましく、好ましくもあった。
 自分の皿から蒸し鹿肉を取り分けてやると、男の尻尾は跳ね上がって喜びを示した。ぱたぱた振られる尾。実に分かりやすい。

「ありがとよ、シューゼ。遠慮なくもらうぜ」
「で、結局二人とも命は助かったんだろう?」
「まあな。天人国に滞在してた商隊の奴の話によると、楽観できる状態でもないらしいがな。総帥は取り逃がしちまったし、世継姫は心労で寝込んじまったとか」
「へえ……そいつは知らなかった。お気の毒なことだな」

 当然ながら、天人国としてはこれほどの凶行を許しておくわけにはいかないだろう。
 国内で他国人が罪を犯した場合、被害を受けた国の法に則って裁くことが認められている。天人国の裁きにかけるべく、海人王に総帥の身柄引き渡しを要求して動いているに違いなかった。

「それでな──ここからがミソなんだけどよ」

 男が不意に、声をぐっと低めて囁いてきた。シューゼの食事の手が思わず止まる。

「兵が、集っているらしい。天人国の首都にだ」

 とっさにシューゼの脳裏をよぎったのは『戦』の一文字だった。
 ──世界中に死と怨嗟をもたらした大戦の終結から、わずか八年。もう二度と同じ過ちを繰り返さぬと誰もが誓ったとはいえ、公式の祝いの場で王族の命を狙われたとなると、最悪なら宣戦布告もあり得ることだろうと思われた。

 そう、海人国を相手取った開戦の運びとなっても、他の三国は天人国を非難しないだろう。海人王が総帥の引き渡しを拒んだ場合……犯行が“総帥の独断ではなかった”としたら。

「……キナ臭いじゃないか」

 シューゼの漏らした呟きに、男は思案げにうなずいた。と、シューゼの表情に気づいて一瞬だけ目を見張る。そして最終的に男の顔に浮かんだのは、「やれやれ、やっぱりか」という苦笑。

「有益な情報ありがとな。もう一杯飲んでいけよ」

 自分の食事もそこそこに、シューゼは懐から包みを取り出すと、卓上に二人分の硬貨を置いて男に笑いかける。

「ご馳走さん。シューゼ、おまえもつくづく怖いもの知らずだよな。下手すりゃ国同士の戦になりそうだってのに、そこへ首を突っ込んで一稼ぎしようなんて考える“頼まれ屋”は、おまえの他にいやしねェよ」
「そいつは褒め言葉だろう?」
「せいぜい気ィつけろよ。天人美女に引っかからないようにな」

 軽く手を上げ合って、シューゼは喧騒たけなわの酒場を後にした。
 出入り口をくぐった途端に夜風がまとわりつき、襟足で適当にくくられた黒髪を舞い上げていく。
 星の位置関係から天人国の方角を探り当てた金色の双眸は、まさに不敵そのものだ。待っていろと言わんばかりに空を見上げ、にやりと目を細める。

 儲け話は転がり込んでこない。こちらから乗り込んでいかなくては。
 視界いっぱいに広がる星月夜。シューゼは悠々と旅支度の算段に取りかかった。


 END