Fly Towards
血塗られた祝典は瞬く間に地上全土の知るところとなった。
各国の慶賀使節が現場に居合わせたのだから当然のことと言える。
もっとも、海人国の総帥が天人王を狙った事件そのものよりも、不可思議な力で王とその嫡男の大怪我を癒してみせたという天人の王女の存在のほうが、しきりに人々の口の端に上っているようだった。
慶賀行事の主役であったその王女は、次期王位継承者として華やかに御披露目されるはずだった世継姫。
遠ざかり始めていた先の大戦の埋み火が、揺らめきながらいま再び燃え上がらんとするのか──。
戦後最大の惨劇を目の当たりにして、残り三国は、天人国と海人国の動向を、固唾を飲んで見守っている。
*
獣人国の苛烈さ、地人国の頑迷さに比べると、天人国は穏和で柔軟な国民性と言われている。
しかし国家の頂点である王への理不尽な刃傷を甘受するほど腑抜け揃いであるはずがなく、初期対処は迅速だった。
慶賀行事を全て中止のうえ王都全域に警戒体制を敷き、凶行に及んだ海人国王軍総帥を捕縛するため武装兵を放つ。
王宮に参内していた各国の要人らは、その日のうちにそれぞれ警護つきで国境まで送り届けられた。
近衛兵団長であるジブリールは父王を庇い重傷を負ったため、混乱の中で指揮を執るのは王妃だ。
ルシファーの施した法願術の効果で二人の命に別状はなく、毒物を使われた痕跡もない。間もなく意識を取り戻すだろうというのが宮廷医師たちの見込みだった。
なぜあの青年総帥は二の太刀を振るわなかったのか。追撃を受けていたら、おそらく王はジブリールともども命を落としていたであろう。
とどめを刺すことよりも逃亡を優先した……という様子には見受けられなかったのが不可解だ。
総帥と供回りの者らの脱出を阻止しようとした武官数名が負傷していたが、死者が出ていないというのも不自然に思われた。
最大の問題は、彼が単独で事件を起こしたのか否か。
それはこれからの海人国の出方で分かる。
ひりつくような緊迫に浸された宵は過ぎ、すでに緊急抗議文を携えた特使が海人国へと着いた頃合いである。
報せはない。すなわち、一路生国に逃げ込んだであろう総帥の身柄を確保できなかったということだ。
四十路になる王妃はさすがに疲労の色が濃いものの、落ち着いた様子で官吏の注進に耳を傾けている。
やがて、海人王の滴るような敵意が明らかになった。王都青藍の海人王のもとへ遣わした特使が戻るや否や、声を振り絞って報告した。
「海人王に謁見叶いましたが、下手人の引き渡しは明確に拒絶されました。書状は破り捨てられ、近衛兵が恫喝と共に武器を向けてくる有様でございました」
問答無用で拘束されそうになったところを、混乱に乗じてどうにか脱出できたのだという。
他国人が罪を犯した場合、事件発生国の法に則って裁くことが認められている。
よって天人国の裁きにかけるべく、海人王に総帥の身柄引き渡しを要求し、そして拒否されたのだ。
王に近しい中枢部はひどく騒然としているように見受けられたという。真夜中にも関わらず、泡を食って飛び込んできた高位の官吏らしき人物らが海人王に事件の経緯を詰問し、謁見の間になだれ込んできた武官が激しく威嚇する。手荒く取り抑えようとする者、抵抗する者。怒鳴り声と悲鳴。まるで戦時だ。
王妃は危険な任務を果たした特使と護衛らを厚く労い、休息を取らせるために下がらせた。
──海人王レアの乱心。
帰還した特使たちの報告や各方面から続々と寄せられる情報を総合し、王妃とルシファーはそう推察した。
総帥エーギルとの共謀によるものかどうかは定かでないにしろ、元凶は女王であると見做していいだろう。
事は重大だ。厄介なのは、海人国は五か国の中で最も王権が強いと言われるほど国王が実権を握っていることだった。
しかも今代の海人王には、本来監視役となるはずの同胎の兄弟がいない──先の大戦で亡くなったと聞いた。
下手をすれば国同士の戦になる。
海人王がその気なら、今頃軍隊が動き始めていてもおかしくないのだが、今のところ軍事行動は見られない。内部統制に手間取っているようだった。
海人王が強権を振るって戦争を仕掛けてくるか、はたまた事件の発端を作った者として引きずり下ろされるのか。
天人国としては、局面の転換をただ待つか。あるいは調略を仕掛けるか。
『これは報い。八年前から王の片割れは眠り続けたまま、もはや目覚めない──』
悲鳴と血臭の中、感情のこもらぬ声で呟かれたその言葉が何を意味するのか、ルシファーは測りかねていた。
蒼氷色の眼差しが脳裏に焼き付いて離れない。
視線が触れ合った途端、自分の中に蠢くものが確かにあった。
あれは一体なんだったのだろう。
救護室に運び込まれた王と従兄を見舞い、二人の顔色が普段とほぼ変わらないほど回復しているのを確認すると、自然と安堵の息が漏れた。今はもう眠ってしまっているが、先ほど王の意識が戻ったと報告があり、ほんの一時だが王妃と会話ができたようだった。
特に重傷だったジブリールはまだ目覚めない。
固く絞った手巾でその額や首筋を拭い、ルシファーは寝台の傍らに腰かけて従兄を見つめた。
掛布の上に乗せられた彼の手をそっと取り、自分の両手で包み込む。大きな手がいつもより少し冷たく感じられて、思わず己の額に押し当てた。
剣だこのできたこの手を、いつだって優しく差しのべてくれた従兄。公私共にかけがえのないひと。
優しい常盤緑の双眸を早くまた見せてほしいと願わずにはいられない。
窓辺から掛布越しにほのかな明るみを感じる。いつしか夜明けを迎えていた。
二重の窓掛けを指先でわずかに避けると、美しいグラデーションに染まった空が広がっていた。曙色から群青色まで、見とれてしまうような色調の移ろいだ。
春の空が、朝まだきの王都ごと、人々を見守っている。
宮廷での襲撃事件を伝え聞いた民は不安な一夜を過ごしたに違いなかった。貴族たちも動揺している。少しでも早く民衆を寧ずる義務が、ルシファーにはあるのだ。
背後に気配を感じる。振り返って確かめるまでもなく、それが王妃のものだと分かった。
眩しげに目を細める彼女はこの一夜であらゆる差配を為し、憔悴していた。
有事の際に陣頭指揮を執るのは貴人の務め。王と王妃はその筆頭者だ。
だからルシファーの中ではすでに決定していることだった。枕辺を乱さぬよう静かに、しかしはっきりと告げる。
「わたしが行きます」
天人国の次期国王として、それが最善と思われた。
今回の件が“海を識る者”たちの総意でないのなら、穏当な決着をつけるべく手を尽くさねばならない。
最も着実に事態を動かし、かつ無事に戻れる可能性が高い処置案が、法願使いルシファーの単独行である。
「まあ、あなた……何を言うの」
「今この状況ではわたしが適任ですよ」
虚を突かれた王妃は絶句した。たった一人の世継姫でありながら自ら危地へ赴くというルシファーを案じ、家族として公人として難色を示し……それでも最後には折れる形で承諾してくれた。
とにかく事は急を要する。時の経過と共に事態が好転する可能性は低いと見込み、打てる手はできる限り講じておくべきだった。
仮眠をとり身支度を整え、新たな情報を精査して打合せをする。表向き、世継姫の不在は伏せておくことになった。海人国に余計な隙を見せないためである。
王妃の裁可を受けたルシファーが極秘裏に出立したのは、普段であれば朝稽古でまだ御苑にいる頃合いの時刻だった。
天人国の王都・連翔から海人国の王都へ行くには、南東の方角に向かうことになる。国境まで一気に飛び、休息の後に潜入する手筈である。
いくらなんでもせめてと王妃に泣きつかれた結果、随行員を二人だけ伴うことにした。近衛兵のミツミと諜報部のラズワード。どちらも緊迫した面持ちだったが、緊急事態の只中とあっては無理からぬことだろう。
柔らかな陽射しの中に両翼を広げ、風に乗る。一年を通じて基本的に王都で過ごす王族は、冬を越すために国土の南側へ移動する貴族たちと違って長距離を飛ぶ機会があまりない。滅多にない経験だ。
民衆の目を避けて高度を上げると、首筋から背中まで粟立つほどに空気が冷えていた。風も強い。うまく気流を掴めば昼過ぎか、間食時には青藍に入れるだろう。
眼下に流れゆく景色が脳裏に無数の彩りを残していく。瀟洒な貴族街に歴史ある城下町、湖と城砦、太い行路から枝分かれして丘の向こうへと伸びた古道。平野部には詰め合わせ菓子のように色とりどりの耕作地が広がっている。
翳りのない蒼穹と、人々の営み。
このような状況でなければもっとじっくりと目に焼き付けたい光景ばかりだった。
羽打つ音を重ねて翔ける。疾く。疾く。
先を行くミツミを危うく追い越しかけたところで自制した。護衛より前に出てどうする。それにラズワードをやや引き離してしまっていた。まだ国内だから良いものの、国境を越えたらこれではいけない。
これほどの速度で連続して飛翔するのが初めてに近いせいだろうか。陶酔にも似た不思議な充足感があった。より速く、さらに高く、どこまででも飛んでいけるという本能的な誘惑はたいへん甘美で、こんな事態だというのに快い。
やがて南端の砦に辿り着くと、哨戒兵らが城壁で出迎えてくれているのが見えた。歩廊に向けて緩やかに下降する。
砦のあちら側はもう海人国の領土だ。
視界に映る隣国の空は、複雑な色を内包して揺らめく厚い緞帳のように感じられた。
END