夢想百題

004. 大神殿



 神様なんて存在しない。
 だってそうだろう?
 もし神様が、天帝が本当に在るのなら、どうしてあの時みんなは死んだ?
 パンを焼き、木材を加工し、家族そろって床に就く。朝夕欠かさず祈りを捧げて……日々慎ましく暮らしていたのに。
 拝火教の異教狩り。
 アイツらは全てを踏み倒し、焼き払った。
 なぜ天帝は、敬虔な信徒をみすみす犠牲にしたのか。
 なぜ救いの手は差し伸べられなかったのか。
 ──答えはただひとつ。
 神様なんて、最初から存在していなかったのだ。


 焼け野が原となった故郷を離れ、当てもなく各地をさすらい続ける日々。あれから何年経ったのか、もはや数えてみることもなくなった頃。リューレンは、旅人で賑わう街に立ち寄った。路銀が底を尽きかけていたので、日雇い仕事でも探そうと思ったのだ。
「そうか、秋の巡礼」
 思わずぽつりと呟いた。立ち尽くすリューレンの前を、穏やかな表情の人々が通り過ぎていく。
 リューレンはよく知っていた。この人たちは、街の中心にある大神殿を目指しているのだ。
 毎年、収穫の時期が終わると、その実りに感謝するための神祭が催される。旅人は各地に無数ある神殿を巡礼した後、最終的に最寄りの大神殿へと集うのが慣習だった。幼い頃に、リューレンも幾度か参加したことがある。
 荘厳な大神殿、揺れる灯火、跪いて天帝に感謝する人々。
 粛々と歩む彼らの姿が、やけに胸に迫った。
 気づかぬうちに足が動いたのは、かつて信じていたものが──信仰に彩られた昔の生活が、懐かしかったからだろうか。
 喪った幸せの残滓。その尾を辿るように、ぼんやりと歩き続ける。
 気がつくと、リューレンは大神殿の前に佇んでいた。


 人は、何かにすがらなければ生きていけない。
 毎日をこなすことに精一杯で、辛く苦しいばかりの人生が悲しいから。
 だから安らぎを求める。己より上位に在るもの、神に安寧を祈り、死後の休息を渇望して。
 神は絶対上位者の象徴。請い願い、教えを守り、神へのその想いを拠りどころとする。
 人の子らの、なんと弱きことか。神など、人間が生み出した抽象概念に過ぎないというのに。
 実体を持たぬ存在を奉ったあの神殿は、単なる大規模な空家だというのに。
 それでも彼らは跪き、真摯に祈る。
 愚かで哀れな……人の子ら。
 大神殿へと吸い込まれてゆく人々を眺め、リューレンは思う。
 きっと彼らにとっては、神が実在するか否かの論議など、ごく些細なことなのだろう。
 神は、己の中に在る。自分の中に在る神を感じ、教えを胸に抱き、丁寧に日々を送る。つまりは己の在りようの問題。信仰とはそういうものだ。神の実在を認められない者には、いささか理解しがたいだろう。
 それに、一口に『神』といっても、宗教によってその位置付けは大きく異なる。全知全能の絶対神もあれば、森で迷子になった子どもに道案内をしてくれるような、身近な土地神もあるのだ。
 宗教の違いは争いを生む。それは拝火教の例を見るまでもなく、すでに歴史上証明されていることである。
 各々の神を静かに信じていればいいものを、一神教徒は隣人が異教の神を奉っているのを許せない。彼らはえてして他の宗教を排除したがるものだ。
 リューレンの故郷を襲った連中、拝火教も、実に典型的な一神教的性格を備えていた。
 彼らは異教狩りに熱を上げた。異教徒を看過せず、凄惨な焼け跡が拝火教の威信を厚くすると信じ、徹底して虐殺を行った。
 宗教は、恐怖を和らげ、絶望から人を救う。しかし同時に、視野を狭めて人を狂わせることもある。幼かったリューレンが、身をもって学んだことだ。
 これほど繰り返し多くの人に影響を与える、宗教とは一体なんなのだろう。
 神が実在してもしていなくても、どちらでも構わないような曖昧なものなのに、なぜ人は信仰を持つのだろう。リューレンは分からなかった。
 老婆や少年、小奇麗な商人、煤けた外套を纏った旅人。優しい光を胸に抱いて、巡礼者は続々と大神殿へ詰めていく。

 リューレンはもはや神を信じることができない。
 信仰など、脆く弱い人間が、慰めを求めた結果の産物なのだから。
 だから、在りもしない者に祈りを捧げるための、あの大神殿は、主なき聖所。人の心の弱さの顕れ。惰弱な人心を拡大誇張した、飾り物だ。
 神は実在しない。実在しないものを信じ続けることなど、自分にはできない。ゆえに信仰を棄てた。
 では、今こうして胸が締めつけられるのは、なぜ……?
 彼らが羨ましいのだろうか。彼らは天帝を敬うことができるから。
 巡礼の人々の、穏和な顔が思い起こされる。彼らの表情には、確かな拠りどころを持つ証しが映し出されていた。
 そう……彼らはきっと、辛く厳しい坂道を誠実に、心穏やかに上っていける。
 しかし、信仰と訣別したリューレンには、彼らの列に加わることができない。
 魂の安息は、得られない。

 棄てたはずの信仰。
 猛火に飲み込まれる父母を救ってくれなかった天帝。
 絶望のあまり、泣くことすらできず徘徊した日々。

 幾つもの思考が、茫漠と脳裏を駆け巡る。
 白亜の聖所を眼前にして、リューレンは一歩も動けなかった。


END