夢想百題
035. 廃坑の秘密 (3)
──つややかな光沢のある布。いや、これは羽衣だ。
おそるおそる広げてみれば、折りたたまれていたというのにシワひとつ残っていなかった。絹に似ているが絹よりなお柔らかく、曙のように美しい。陽の光を浴びて風に舞えばどれほど映えることだろう。
「火明の瑞宝のひとつ。蜂ノ羽衣です」
「蜂ノ羽衣……」
「おおーっ、いわゆる神代の遺産ってやつか?」
雲取が苔色の瞳を輝かせて葛葉の手元を覗き込み、羽衣をつまんだり裏返したりした挙句、あっけらかんと言い放った。
「確かにすげぇ上等な逸品みたいだけどよ、案外フツーっぽいのな」
「これ雲取っ、失礼なことを言うでない!」
慌てて制止はしたものの、葛葉も気がついた。
たしかに芸術品のように素晴らしい羽衣ではあるが、特段何の力も感じ取れない。刑部姫が持たせてくれた琥珀の指飾りのように、妖術が仕込まれているという気配もなさそうだ。
「いや、だってよォ。ワシはもっとこう、いかにも威光まばゆい伝説の神器! って感じのを想像してたんだよ。妖力むんむんで、触れただけで力が底上げされるー、みたいなさっ」
「……こうして見るとただの装飾のようではありますが、瑞宝は必要なときだけその力を発揮する、と言い伝えられております。かつて封じの戦で実際に用いられたわけですし、だからこそ刑部姫もあなた方をここへ向かわせたのでしょう」
阿古耶の口調は、あくまでも丁寧だった。なんとなく生真面目な性格がうかがえる。清白と気が合いそうだ、と葛葉は胸中でひとりごちた。
「なるほど。神器は常識では測りきれぬ、というわけじゃな」
「それで、これはどういう使い方をするんだ? 見たところ武器ではないようだが」
「ごく普通の羽衣のように、纏うのですよ。そうすれば、纏った者だけでなく周辺一帯を穢れから護ってくれるそうです。蜂が一斉に飛び立つように加護が広がるので、その名が冠されたとか」
穢れを防ぐ。つまり怨霊のふりまく強烈な毒気を中和してくれるというわけだ。
怨霊が解放されたとき、葛葉は白碇城に残った不浄の気にあてられて数日間も寝込むはめになった。人妖は気脈の影響を受けやすい。怨霊に対抗し、封じるために、この羽衣は大いに役立つに違いない。
「そりゃあいい。指飾りと面覆いだけじゃ心もとないもんな」
「うむ。毒気を気にせず戦えるのならば打てる手が相当広がろうて」
琥珀の指飾りと銀紗の面覆いでは、どちらも身につけている葛葉の周りしか清められないのだ。
蜂ノ羽衣で穢れを抑え、場の安全を確保できるならば、他の人妖に加勢を頼むこともできるかもしれない。時間的な猶予も生まれるだろう。
羽衣を捧げ持ち、葛葉はひざまずいた。阿古耶の真摯な声が坑内に響く。
「これが穂積の誠意と受け取っていただきたい」
「確とお受けいたしました」
想いを込めて葛葉は答える。
声音に高揚がにじみ出ているのが自分でも分かった。雲を掴むようだった怨霊封じの手立てが、一気に具体性を帯びて目の前に現れたのだ。どうして昂ぶらずにいられようか。
かけがえのない瑞宝を貸し与えてくれた阿古耶への感謝の念で、自然と頭が下がる。
「礼には及びません。どうかお願いいたします。荒ぶる魂をお鎮めくださいますよう」
したたる水のように言葉を紡ぐ小さな女妖。
木霊は、木々と共に在る人妖だ。瘴気を振りまき生命を喰らう怨霊が近づけば、阿古耶たちはなすすべもなく毒牙にかかるより他はない。おそらく逃げ出すことすらできないのだろう。
彼女らの気持ちに応えるためにも、必ずや怨霊を封じてみせる。
葛葉はすっくと立ち上がり、そしてかすかに微笑んだ。足元がまたひとつ固まったような、そんな気がした。
復路の足取りは軽い。
桐箱ごと借り受けた羽衣は、丁重に葛葉の背嚢へと納められた。穂積の衆の願いを背に負って、改めて気の引き締まる心地がする。
再び清白におぶさった阿古耶の半歩後ろを歩きながら、葛葉はふっと疑問を覚えた。
この瑞宝は、神々の遺産とまで言われる稀有な品だ。火明が離散したのちも穂積氏族が守ってきた、代替のない宝物。
彼女らは、そんな重要な品を、初めて顔をあわせた、火明の枝分かれすら知らなかったような自分たちに易々と貸してくれたわけだ。
いくら刑部姫の口添えがあったにせよ、ここにいる穂積の衆は、その刑部姫自体とも直接の面識はなかったはず。なのに彼女の寄越した言葉を信じ、葛葉らを信じてくれた。
なぜだろうか。何の試練も受けず、瑞宝を借りるに値すると自ら示したわけでもない。
解き放たれた怨霊が、驚天動地の深刻な事件であるのは確かである。けれど、だからこそ力を宿した瑞宝の存在はいや増して重要になるだろうに。