異端者たちの夜想曲
あり得ぬ未来 (1)
大切な大切な、あの人がいた。
凪いだ春の海のような人。柔和な笑みを浮かべ、こちらを見つめる彼が。
彼は微笑み、語りかけ、そして、そっと手をさしのべてくれた。
さし出された大きな手に自分の掌を重ねようとして、雪は一歩前へと踏み出す。
しかし届かなかった。彼は少しずつ遠ざかっていく。手をさしのべた姿のまま、浮かべた微笑みもそのままに、まるで見えない力に吸い寄せられるように。
驚いてもう一歩踏み出すと、彼との距離は一瞬にして数歩分のびた。
また数歩歩み寄る。やはり彼は雪から離れていってしまう。
とうとう雪は走り出した。泣いて彼の名を呼びながら。
すでに絶望的な隔たりとなってしまった彼との距離は、どんなに走っても絶対に縮まってはくれないのだと悟りつつも、それでもなお、雪は走った。
ふと彼の背後に気配が生まれる。
突き刺さるような鋭い害意。
研ぎ澄まされた殺意は、はっきりと彼に向けられていた。
それを察知した刹那、凍るような戦慄が雪の意識中を駆け抜ける。
雪は叫び、もつれる足を叱咤して彼のところへ行こうとした。
喉を震わせ、彼を凶弾から護ろうと血を吐く思いで手を伸ばす。
喉が破れてもいい、骨が折れてもいい、どうか彼の傍へ。
不意に、彼の笑みが深まった。
もう少し。あと少しで彼に手が届く。優しい微笑みを浮かべ、腕を広げて待っていてくれる、彼のところへ。
いま行くから。
必ず護るから。
無我夢中で手を伸ばし、身を投げ出した。
……けれど、最後には。
圧倒的な力に胸板を貫かれた彼は、ゆっくりと崩れ落ち、そして息絶えてゆく。
──ヒイラギを、連れていかないで──
泣き叫んだ、自分自身の悲壮な声に、雪は思わず目を覚ましていた。