異端者たちの夜想曲
林原将(7)
街に漂う真冬の夜気。厚い雲が絨毯のように天上を覆っている。
(ああ、そうか。世間じゃ年末か)
残った仕事を来年に回し、早々と会社から引き上げた人々が、群れをなして忘年会の会場へと向かっているのだろうか。やけに人通りが多い。
将は雑踏をすり抜け、裏路地に入り込む。風俗店や小汚い食堂が林立する、雑然とした界隈へ足を進めた。この汚さ、明らかに都市計画とは無縁の坩堝のような土地である。
この辺はフクのお気に入りで、何年も前から厨房の残り物やらをもらっているらしい。古い店員と立ち話をしているのを何度か見かけたことがあるので、たぶんここで長話に興じているのだろう、と将は踏んだのだった。
だが、そこにフクの姿はなかった。
「フクさんなら、しばらく前に帰ったよ」
と言う顔馴染みの店員におざなりな目礼をして、将は踵を返した。
となると、思い当たる場所はひとつしかない。
繁華街の外れ、雑居ビルと雑居ビルの間。その奥にちんまり納まった、紅い神社。野良猫たちの集会所でもあるそこは、フクの大のお気に入りなのだ。
忘れ去られた神社。実のところ将も、灰色の都会にぽっかり空いた緩衝地帯のようなその場所を、口には出さないけれどもけっこう気に入っていた。
(また“お祈り”してんのかな)
色落ちした祠に向かって、一人熱心に手を合わせる姿が目に浮かぶようだ。
今の御時世じゃ土地神様も干上がってるかもしれんがね、と苦笑いしながらもフクは定期的に神社を訪れ合掌していた。信心などは持ち合わせていないが、この街へ来てからできた習慣なのだそうだ。
何をそんなに一心に祈っているのかは知らないが、祈りを捧げる時のフクの顔はひどく真摯で、将はそんなフクの横顔を眺めては考えるのだった。
果たして自分はあれほど純朴に神様に祈れるだろうか。祈りを捧げて息災を願うような相手が、自分の内に存在するのだろうか、と。
普段は意識的に思考の外に追い出していることも、なぜかそこではすんなり胸に下りてくるのだった。
街の喧騒から隔たれた小さな境内を思い浮かべ、将は歩を速めた。
それぞれコートに首を埋め、足早にすれ違ってゆく人々。頬に当たる風は鋭く、むき出しの手や顔を容赦なく刺す。
(今夜は特に冷えるな)
そこで将の思考は途切れた。
神社へと辿り着いた将の視界に飛び込んできた光景。それは、非日常に属するものだった。
「オイ、誰か来たぜ」
「あぁ?」
「何だオメー、ナニ見てんだよ」
「んん? どォしたのかなァ? ぼーっとしちゃって」
含みを持った言葉たちが、季節外れの羽虫のように周囲を飛び交う。
薄暗い境内の奥。ゆらりと立ち上がる四人の男たち。将と同年代のようだった。彼らの足元には、ぐったりと倒れ伏したフク。力なく地に四肢を投げ出している。
「あ……」
夜気に混じるかすかな血臭に気づいた時、将の脳はようやく事態を理解した。と同時に、停止していた思考は物凄い速度で回転を始め……
そして、一挙に飽和状態へ達した。
(う、あ……あああっ!)
血。血の臭い。
振り上げられた拳。
のしかかってくる好戦的な視線、視線、視線。
恐慌をきたした将の意識野には、もはやどこにも理性など残っていなかった。
漂白された思考の中、将は、激情というよりは自衛本能に近い、強く烈しい衝動に突き動かされていた。
相手が吹き飛ぶほど、思い切り拳を叩きつける。蹴り上げる。肘で払いのける。およそ可能な限り、将はありとあらゆる手法で攻撃した。
いや、攻撃と表現するのもはばかられるような……それは、獣の闘争だった。長年に渡る辛い経験によって特化した将の自己保存本能が、一瞬にして彼を野生の獣に変化せしめたのである。
「うわ、あぁっ! あああッ!」
自らの体内からにじみ出る鮮血に動転し、男たちは見る見るうちに攻撃の意志を手放していく。彼らは殴ったり蹴ったりすることには慣れていたが、その逆には全く免疫がなかった。彼らの残虐性は、自分より劣勢のもの、力の弱いものへのみ向けられるのが常だったからである。
一貫して加害者の立場にあった者は、往々にして想像力というものが欠落していく。すなわち『自分が他人にしている行為が己の身に返ってきたら、一体自分はどうなるのか』ということを予想し得ないのだ。
共感力の欠如。
彼らは思わぬ反撃を受けると脆い。そして将を取り囲んだ四人の若者たちも、その例に違わなかった。
「や、やめっ……!」
「うあっ! あァア!!」
将の尋常でない激発ぶりに、若者たちはたじろぎ、不安を抱き、ついに恐怖した。
いかに軽挙妄動の達人とはいえ、自分の腕や足が言うことをきかなくなり、我慢しかねる鋭い痛みを脇腹に抱え込んだりすれば、いやでもその場に轟然と鳴り響く警鐘に気づかざるを得ないだろう。
「ぐぅっ……。な、なんだよコイツ!?」
「馬鹿、早くしろ!」
蜘蛛の子も顔負けの速度で、男たちはばらばらの方角へ散っていった。
後に残ったのは、意識を失ったまま動かないフクと、茫然と立ち尽くす将。
そして、吹き荒ぶ真冬の夜風でも洗い流せない、濃い血の臭いだけ。
濃い、濃い、血の臭い。
闇夜に漂うその香りは、ひどく鉄臭くて……
吐き気がするほど、甘かった。