六一二年草月/エリッサの母親
薔薇色に染まった我が子の頬に手を伸ばすと、娘はかすかに目を細めた。
触れた肌は昔と寸分違わぬ瑞々しさで、とうに深い淵へと沈んだ私の記憶を否応なしに刺激する。
しきりと思い起こされるのは、この子が生まれた晩のこと。
満ち足りた穏やかな銀月、満天の星々が躍り輝いて、しっとりとした風が東から西へと樹海を渡っていく。
無事に赤子が生まれるよう、祖母や曾祖母、近隣の女性たちが一針ずつ祈りを込めて編んだ腹帯――複雑な絵柄は安産祈願のしるし。
長いあいだ子どもが生まれなかったぶん、身内だけでなく集落全体がこの子の誕生を待ち望んでいたのだ。柔らかな産着は数えきれないくらい用意され、母親である私を気遣って、女性たちが我先にと世話を焼いてくれる日々。
そしてあの夜、小さな命は恐れげもなくこの世に生まれてきてくれた……。
私の大切な子。エリッセイヴレム。
さらさらと流れる乳白色の髪も、霊峰の雫のように澄んだ蒼い双眸も、うららかな春めいた気性も、すべてが愛らしかった。
数ヶ月違いで同じ集落に生まれたアタラクシアという女の子と共に、一族の末娘として人々の愛情を一身に集めていた。伸びやかに振る舞う子どもたちを前にすると、常日頃は厳格な老人ですらひとたまりもなく、相好を崩さずにはいられなかった。
そう、この子は目に見える宝物だったのだ。
慈しみ深い、暮らしは慎ましくとも幸福な日々。
そうして幼子はゆっくりと大人になっていくはずだった。この樹海に住まう長生種の、誰もがそうであるように。
私や夫をはじめ、皆、この子のこんな有り様は予想していなかった。
周囲の反対を押し切り、人間の青年と連れ立って樹海を出て行って……今ここにいるのは、砕け散った心の残骸を抱いて虚ろに微笑む娘。以前と変わらなかったのは、花のような美貌だけ。
そよ風が、エリッセイヴレムの癖のない髪を撫でていく。遥か遠くに向けられたその眼差しは、風の行方を見ているのだろうか。
いつか、『緑の季節に生まれてきた女児は“育む者”になる』と、古老は言った。
そう──こうして思い返してみれば、確かにこの子は育んだに違いない。
思いやり、希望、恋心、愛情、絆、悲嘆、絶望、そして狂気すらも。
我が娘の半生を思い、私は堪えきれずに涙を落とした。
END
starry-tales様より拝借
『未来に繋ぐ』5のお題