六一九年霜月/ラグ
北限の地。
アイシスという名称があるにも関わらず、その町は古くからそう呼ばれていたのだという。
ラグが町を訪れた当初は秋口だったが、いつの間にか、遙かにそびえる峻険なる山脈はうっすらと雪冠を戴いている。その麓を絨毯のように覆う樹海は相変わらず深い緑に彩られているものの、頬を撫でる風は身に沁みる冷たさを帯びていた。
ふと思い立って旅に出て、早くも数か月経っている。
宮廷絵画協会の所属であり宮廷絵師という身分にありながら、ラグは公都の工房にいる日のほうが少ないという外出型の絵描きだった。
あまりに極端すぎて、協会の事務方などには『気紛れな放浪絵師』とため息をつかれるが、この姿勢を改めるつもりは毛頭ない。素描帳と最低限の絵具を持ち、気の赴くままにふらりと旅立つ。土地の風景や人々の生活風景を行く先々で描き留めることは、工房にこもって石膏像を描いたり古い絵画の修復作業をしたりするより何倍も心が躍るのだ。
今回はなんとなく北へと向かって、左向きの三日月に似た形をした大公国の北端まで来てしまった。最も北に位置する人間の町。──ここより北は長生種の領域であるリュミレス樹海となる。
そのせいか、この町では長生種の姿を時折見かけることがあった。互いに一線を引きつつも、穏やかに物々交換などをしているらしい。地元民が過度に異種族を拒む様子はなかった。
長生種の作る細工物、特に精緻な刺繍が一面に入れられた敷物や帯は素晴らしくあでやかで品が良いのだ。ラグが泊まっている宿屋にも壁掛けとして使われていた。
「絵描きさーん!」
夕暮れの気配を吹き飛ばしそうな明るい声が響いた。道具を鞄にしまいかけていたラグのもとへ、声の主が鞠のように駆け寄ってくる。
「もう帰る? ねえ、また陛下の絵見せてよお。都のお話も聞―きーたーいー!」
子犬のように纏わりついてくる宿屋の子を、ラグは適当にあしらいながら簡易椅子を畳んだ。
旅装を纏い、行商をするでも研究調査をするでもなく日がな一日ぶらぶらしては絵ばかり描いている余所者など、あまり関わりたくないのが普通であろうに、ラグが公都に住まう本職の絵師であると察したらしい女の子は、このところ物怖じせずに話をせがんでくる。特に大公と公都リィザに興味があるようで、宿の食堂で夕餉を済ませたあとなどは質問攻めになるのが常だった。
「家の手伝いはもう終わった?」
「おわったー。お母さんが、そろそろご飯ができるから絵描きさん呼んできなさいって」
思わず苦笑がもれた。熱中しだすと寝食忘れて没頭してしまう珍妙な客に、子どもだけでなく宿屋の主人夫妻もすっかり慣れてくれたらしい。
「今日は鶏肉だよ。ちょっとぴりっとする、香草のたれ? じゅわーってかけるやつ、アレと一緒に食べるんだよ」
「それは楽しみだ」
「食べちゃったらお話してね」
「はいはい。キミが基礎学校の持ち帰り課題をちゃんと終えたらね」
「えー!? そんなのいいよお。だって課題はいつでもできるけど、絵描きさんのお話は今しか聞けないでしょ?」
物心つく前から多くの旅人を見送ってきたのであろう子どもの言葉に、ラグは妙に納得してしまった。長期滞在する客も、ずっとここで暮らすわけではないと、幼いながらに理解しているのだ。
目を輝かせて話を期待する少女にとって、公都は遙かに遠い、雲上の夢のような地であるに違いない。
「陛下はまだ若いけど立派な方だって、お父さん言ってた。あ、侯爵さまもすごく立派だけどね」
北部都督として周辺一帯を治めるアルデバラン侯爵は、老練な為政者で高名だ。民から畏敬の念をもって仰がれているのは、この子の発言然り、日々の営みの端々からも感じ取ることができた。
「二軒隣のシイちゃんのお兄ちゃんも、おうちに帰ってこれたのは陛下のおかげなんだって。よく分かんないけど、やっぱり陛下ってすごい人なんだねぇ。シイちゃんのお兄ちゃんって、ちょっと変わってるけど面白いんだよー。失せ物探しがすっごく得意でね。あたしが失くしちゃった手巾もすぐ見つけてくれたんだから。都にいたときのお話もしてくれるし、あたしシイちゃんのお兄ちゃんがいてくれて嬉しいんだぁ」
女の子はにこにこと無邪気に喋りながら、ラグの手を引っ張るようにして宿の方角へと向かう。傾きだした陽はあっという間に霊峰キーツの向こうへと沈んでしまい、辺りに残るほの明るさもじきに夜へと呑まれるだろう。
「リィザに行ったことあるなんて、いいなぁホント。いいなったらいいなー!」
夕焼けの空。徐々に青が混じり始めた複雑な茜色に染まっている。刻一刻と移ろう空は、どんな画布にも映し取れない、繊細このうえない情景だった。
女の子は歌うように拍子をつけて、ラグの腕を掴んだ手を大きく振る。鞄の中で、細かい道具がかたかたと音を立てた。
「キミだって公都へ行けるよ」
「え、ウソ! ……ホント!?」
ラグが静かに言うと、女の子は手を振るのをぴたりとやめて仰ぎ見てきた。驚きと、羨望と、一抹の疑念が、そのつぶらな瞳にありありと浮かんでいる。
「キミが本気でそれを望むなら、ね。ただし今すぐじゃない。大人になって、例えば公都で働き口を見つける。ツテがあったら貴族の邸に下働きに入るとかね。そういう人は大勢いるだろう。暮らすんじゃなく観光したいんだったら、給金を貯めるところから始めればいい」
「えー? なーんだ、大人になったらかぁ」
「まあ、宿の跡継ぎのことがあるからご両親にはよく相談したほうがいいね」
「もしダメだって言われたら?」
「説得するか、諦めるか。どちらか選ぶのはキミだ」
難しい顔をして考え込んでしまった女の子を見ながら、ラグは思った。宿屋の夫妻は「娘に余計なことを吹き込んで」と迷惑そうな表情を浮かべるかもしれない。
なにしろ基礎学校に入ったばかりの子どもだ。働き口だの給金を貯めるだの、言うようなことでもないのかもしれない。
ただラグは、ひたすらに絵を描くことが好きで、絵画に関わる仕事をしたいと思うようになった幼い日の自分を、この子に重ねて見たのだった。
ついこんなことまで口に出してしまう自分は、ひょっとしたら悪い大人の見本のようなものだろうか。
「その気になればいつだって行ける。道は続いているんだ。この大通りは公都への街道に繋がっているんだよ」
ラグの指差した白い石畳の大通りはまっすぐに町を貫き、起伏のある丘向こうへと続いている。
「じゃあ、あっちに都があるんだね」
南の空を見上げ、女の子は呟いた。
「陛下も今、この空の下にいるんだぁ……」
二人で見上げた空は、淡い青を幾層にも重ねた深みのある色をしていた。
街路樹の葉を揺らす秋風。ゆっくりと流れていく雲。青灰色の羊の群れのような雲に、かすかな残照が影を生む。
思わず絵具板を広げたくなる衝動を、ラグは深呼吸することでそっと抑えた。
足をとめてしまった彼女をラグが促したのは、辺りがすっかり夜の気配に満ちたあとのことだった。
*
その後、本格的な冬が訪れる前にラグは町を後にした。
風変わりな絵師が黒鉛で描いた今上陛下の姿絵は、北限の地の宿屋に今も丁重に飾られている。
END
【遠くの人へ5のお題】
お題拝借:
alamoana様