教室へ戻ると、ちょうど一時限目が終わって休み時間に入るところだった。付き添ってくれたセレシアス先生に御礼を言って、おそるおそる後ろから教室に入る。
「おー、アリア。具合良くなったの?」
「まァた重役出勤やな〜」
気のいいクラスメイトたちが左右から明るく声をかけてくれたおかげで、遅刻魔のあたしが内心抱えていた気後れはあっという間に薄れていく。
「しゃーない、私が一時限目のノートを貸してしんぜよう。ありがたく写すが良いぞ」
「わあ、ありがとう〜! お昼休みに書き写すね」
なんて面倒見のいい級友だろう。持つべきものは友、って昔の人はホントにいいこと言うなあ。いつも感謝感謝です。
借りたノートを机の中にしまいながら時間割を確認する。二時限目は美術。ということは特別棟に移動しなきゃ。
実験に様々な器具を使う理科をはじめ、家庭科、音楽、美術、書道なんかの技能科目はそれぞれ専用の教室があって、教室棟とは別の、特別棟という建物にひとまとめになっているのだ。友達と連れ立っておしゃべりしながら、渡り廊下を歩いていく。
美術を教えるのは、うちのクラスの担任でもあるラグ先生。とりあえず授業前に体調が戻ったことを報告しなきゃね。
まだ休み時間だから準備室にいるかと思いきや、先生は美術室のほうにいた。石膏像の前に据えられた椅子、ボードにセットされた木炭紙。サイドテーブルには鉛筆や練り消しゴムなんかが大量に入った道具セットが置かれている。絵油で汚れたヨレヨレの白衣を着込んで一人佇む様子は、いかにも気難しい美術家といった風体だ。
「あのう、先生……」
声をかけてみる。反応なし。
「先生?」
「…………」
ラグ先生の視線はひたすら石膏像に注がれている。あー、これはスイッチが入っちゃってますねー。
木炭のデッサン線を食パンで消し取ったら、そのパンをそのままかじってしまいそうな忘我状態。いったん作品に没頭すると周りが見えなくなる上に、名前を呼ばれても気がつかない。
うーん、ものすごい集中力。いま火事とか自然災害が起こっても気がつかないで絵を描いてるんじゃないか、ってくらい。「ラグ先生は教師というより芸術家だから」なんて人もいるけれど、まあラグ先生だからしょーがないって感じで皆ふつうに受け止めてる。
その証拠に、移動してきた生徒たちはラグ先生の様子を一瞥しただけで、自主的に道具を用意してデッサン画を描き始めた。いつものことだし、慣れっこになってるんだよね。朝と夕のホームルームにだって姿を見せないことが時々あるくらいだし、チャイムが鳴った程度じゃ聞こえないんだろうなぁ。独断マイペースの専門バカ、って評判どおりの人だ。
仕方ない。一時限目を休んじゃったことは後で言おう。うん。
石膏像のひとつの前に丸椅子を据えて、持参したクロッキー帳を広げる。
優美な女性の石膏像だ。この学園の創立者で、今の理事長の先祖にあたる人だという。腕に抱いた我が子を慈しむかのような柔らかい眼差しをしている。
細長く削られた鉛筆を手に取った、そのとき。
「ちょっと待ったァ!」
派手な音をたててドアが開き、突如乱入してきた人物が一人。
その格好ときたら、これを見て度肝を抜かれない人なんていやしないという程に奇天烈だった。
何枚も重ねた艶やかなキモノ。結い上げられた髪と、身動きに合わせてしゃらしゃらと音を立てる簪。指先には煙管。顔には濃いめのお化粧が施されている。
「……花魁?」
「正解っ!」
誰かの呟きに反応して、その人物はびしっと煙管を突きつけた。
大変遺憾なことに、全身なりきっているその女性の顔立ちには見覚えがあった。高等部二年のティキュ先輩だ。コスプレ同好会会長を務める重度のコスプレマニアで、校内でも隙あらば衣装を披露しようとする、ちょっと風変わりな上級生である。
「デッサンするならモデルが必要でしょ。石膏像より、どうせなら生きてる人間のほうがいいじゃない? というわけでアタシがモデルやりまーす♪」
自薦モデルの乱入って……。
あの人自分の授業はどうしたんだろうか。と、疑問に思った次の瞬間に気がついた。
この学園では高等部の技能科目は選択制になっていて、カリキュラムの都合上、中等部の必須授業と合同で行われる。ティキュ先輩もそういえば美術の授業で見かけたことがあるから、選択科目は美術なのだろう。
そんなことはさておき、この状況どうしよう。ラグ先生を振り返ってみたけれど、案の定こちらの騒ぎにはまったく気がついていないようだ。
「さ、どっからでも描いてちょーだい!」
⇒ (1) 自薦モデルを描く
⇒ (2) 石膏像を描く