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Judgment Day


 あの悪夢の日々に終止符が打たれてから、八年という月日が過ぎ去った。
 今では大戦と呼ばれているその暗黒期は、結局、五ヶ国の痛み分けという形で終結を迎えた。
 戦争の愚かしさ、辛さ、哀しさ、そして犯した過ちの大きさは、その凄惨な光景が人々の記憶に在る限り、幾度となく繰り返し確認される。多すぎた犠牲の果てに、ようやく人々は己らの所業を深く悔い、二度と同じ轍を踏まないことを誓い合ったのだ。

 五つの国々──聖人国、天人国、海人国、獣人国、地人国──の王位は、聖人王を除いて全て新たな指導者へと受け継がれ、地上は血の時代の終焉を迎えた。
 天人国において新王となったのは、先代セラフィムの実弟であるミカエルだった。つまりルシファーの叔父にあたる人物である。そしてルシファー自身は王太子となった。

 次期王位継承者には先王の子息・ルシフェルを。当初はそう考えていた者も少なくはなかったようだが、戦後の恐慌状態が収まると同時にそれは到底無理な相談だということが判明した。
 なぜなら彼は、いなくなってしまったのだ。
 大戦の終盤、親衛隊に守られて城から退避したのを最後に、彼の消息はふつりと絶えていた。王子の護送を担った隊員数名が遺体となって発見されたが、ルシフェルと思しき亡骸はどこをどのように探しても見つからず、手掛かりも、目撃証言すらも一切得られなかった。

 遺体がなければ死亡と確定することはできない。八方手を尽くして捜索は続けられた。けれど結局、現在に至るまで、先王の嫡男ルシフェルを見たという者はいない。
 ルシファーは、両親と兄をいっぺんに失ったという事実を、幼い心に受け入れなければならなかったのである。

 さらに追い討ちをかけるようにして、第一王位継承者という重い立場が彼女を抱き込んだ。
 天人国は、王を頂点とした貴族社会で成り立っている。特に王族の場合は血統が重視されるため、先王の子が存在するならば、その者が最優先で王位を継ぐのが習わしである。しかし戦死した先王の第一子ルシフェルは行方不明、第二子ルシファーはあまりにも幼く、終戦間際に海人国に捕らわれた時の傷も癒えていなかった。
 そこで、世継ぎの姫が成人するまでという条件でミカエルが王位に就いたのだ。幼い姪っ子を不憫に思い、ルシファーの後見人を申し出たのも彼だった。

 こうして……深く傷ついたルシファーは、豪放磊落で知られたミカエルの元で、末娘同然に育てられることとなる。
 大らかで頼もしい叔父ミカエル。にぎやかな二人の従姉と、優しい従兄。彼らと共に、ルシファーは八年の歳月を重ねてきた。
 ――ルシファーは、もうすぐ十五歳になろうとしていた。

 *

「八年、か。早いものだ。あの幼子が立太子するとはな……」

 呟いた女は、ひどく虚ろな目をしていた。
 現実感が希薄な、遠くを見るような眼差し。どれほど華やかな衣装を身に纏っても、美しい装飾品で着飾ろうとも決して隠せない、光が消え失せた双眸である。
 だがその瞳の奥には、常に激しい憎悪の念が逆巻いていることを、彼は知っていた。

 広い広い謁見の間には、彼と女の二人しかいない。鼓膜を圧迫する異様な静寂に包まれたその場所では、唇から滑り出た言葉はいつまでも消えずに虚空を漂っているかのようにも思われた。

「八年。あの子は眠り続けたまま目覚めない」

 豪奢な玉座に身を沈めたまま、海人の女は曇った視線を投げかけた。先ほどから沈黙を守っている男──蒼氷色の髪をした若者に。
 彼の名はエーギル。少年期の終わりを迎えている年頃である。その面持ちは極めて秀麗で、しなやかに引き絞られた体躯も見事に整っていた。しかし髪と同じ色の彼の瞳は、見る者に底冷えするような印象を与える。貪欲に牙を剥いて襲いかかってくる肉食獣の眼差しとはまた異なった、まるで深海に棲む獰猛魚のような……昏く冷たい、凍りついた瞳。
 細めた目でそれを確認すると、女はゆるりと口を開いた。

「分かっているだろう……エーギルよ」

 地の底から響いてくるような声だった。怖気を呼ぶような陰惨な情念に満ちているが、ここにはそれを畏れる者はいない。そして彼女の精神の均衡を慮る者もいない。
 女の紅い口元に、薄い笑みが浮かぶ。
 歪んだ哀しみ、恨み、憎しみ。時を経てなお冷めず、心の奥深くで昏く澱んで濃縮された激情が、幾つも入り混じったような狂気の微笑みだった。

 だがエーギルにはそれが当たり前だった。彼は物心ついてからというもの、その女の狂ったように禍々しい笑みしか、笑顔というものを見たことがないのだから。

 ──いや、そういえばたった一度、もう八年も前に一度きり、薄暗い監獄の中で花のような微笑みを見せてくれた少女がいたのだが……

 エーギルが女の言葉に無言で応えると、昏い笑みが一層深みを増して海人王の顔を彩る。

「時は満ちたのだ。今こそ仇を討つがよい。お前の、その手でな」

 エーギルは理解していた。
 海人王の憎悪が何に向けられたものなのか。彼女が何を望んでいるのか。そして、これから自分は何を成すのかということ。
 膨れ上がった呪詛はもはや誰にもとめられない。放たれて、弾けるのみ。
 エーギルは玉座に背を向けた。軍靴の踵が鳴り、謁見の間に響く。

「行け。不浄なる呪い子よ」

 深く重い声音は、扉の閉まる音に重なって、言葉を発した本人以外、誰も耳にすることはなかった。
 女は再度あの笑みを零した。


 END