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Tearful Day (1)


 ルシファーは全身に風を受け、爽快感を味わっていた。
 五感全てで感じる風の調べは、彼女にとっては馴染み深いものだった。幼い頃から慣れ親しんできたこの空に吸われる感覚は、五種族の中で最も速く高く飛べる天人にのみ与えられた恩恵だ。どんな時も、ひとたび飛び立てば心は天の高みへと際限なく解き放たれた。
 翼を広げて気流に乗り、陽の光を受けながら風の流れを読む。こんなにも自分の中の天人の血を──“空を往く者”の本能を感じずにはいられない瞬間が、他にあるだろうか。

 ふと家庭教師の言葉が脳裏に浮かんできた。『母なる』という表現についての話である。『母なる空』という言い回しを用いるのは天人だけで、海人国なら『母なる海』、獣人国では『母なる森』といった具合に、五カ国間で明確な差異が見られるのだそうだ。帰属意識がそれぞれ異なるからだという。

 視界いっぱいに広がる澄んだ青空。耳朶をくすぐる風のうねり。そして眼下に流れゆく悠久の大地。羽ばたくごとに身体の輪郭が蒼穹に溶けていくような、圧倒的なまでの一体感。空に抱かれ、きっとこのままどこまでも飛んでいける。
 なるほど、この感覚を知っているからこそ天人種族には『母なる空』以外の表現があり得ないのだろう。ルシファーは確信した。

 そういえば王族姓である“ローランス”、その語源は古語で『いつか還る場所』だ。
 翼ある者を育み、見守り、迎え入れてくれる母なりしもの。それはどんな時も頭上に泰然と存在する空に他ならない。
 天人にとって空は思慕の対象であり、王族は連綿とその姓を冠していく。貴き名を持つ一員として誇り高く生きよ、と、そっと抱きしめられているような気分だった。

 翼を広げ、風を従え、疾く駆ける。どのくらいそうしていたのだろうか、いつしかルシファーの視界には馴染み深い風景が映り込み始めていた。次第に拓けていく柔らかな緑地、純白の巨城を中心として円形に築かれた街。天人国の王都・連翔(れんしょう)である。
 花咲く有翼人の都では、いま、盛大な祭典が始まろうとしていた。

 *

「ルゥ、どこ行ってたんだよ?」

 王城の奥殿、東雲(しののめ)ノ宮。ルシファーがふわりと露台に舞い降りるなり駆け寄ってくる人影があった。逆光に目を細め、やっと見付けたと言わんばかりに走ってくる。

「ジルお兄様」
「せっかくの祝賀行事だってのに、主役が遅刻じゃ話にならないだろ?」

 淡く青緑がかった翼をもつ長身痩躯の青年。ルシファーの四つ違いの従兄、ジブリールである。凛々しい盛装姿のジブリールは、平服のまま風に髪を乱した従妹を目にして、呆れたような声を出した。

「またそんな格好で。早く身仕度した方がいいぞ、侍従官たちが騒いでたから」

 ルシファーが素直に頷くので、ジブリールの頬は思わず緩む。幼い頃から一緒に育ってきた仲である。慣れた手つきでルシファーの髪を直してやると、翌日に十五歳の誕生日を控えた従妹は仔猫のような仕草で目を細めた。

「使節の方々はもうご到着なの?」
「ああ、あらかたな。気の早い連中は広間に集まり出してる。もう今日は抜け出したら駄目だぞ」
「ん、分かってる」
「さ、着替えておいで」

 促されるまま、ルシファーは自室へと向かった。遥か遠くから賑々しいざわめきが風に乗って流れてくる。ルシファーの十五歳の誕生日を祝福するため、世界中の国から慶賀使節がやって来ているのだ。王族、将軍、宰相……役職は様々だがいずれも国の重要人物ばかりで、今この瞬間、連翔ほど国賓を多数迎えている場所は他にないだろう。

 天人国では十五歳に至ると一定の権利や義務が生じ、十八歳以上の大人に準じる行為主体であると広く認められる。成人見習いとでもいうべき段階だ。大人と言い切ってしまうには若干心許ないが、もはや子どもではない。
 つまり明日以降、先王の実子であるルシファーはようやく王太子となれる、というわけだった。次代の王として正式に名乗りを上げ、その存在を国内外に知らしめる。そして日が満ちれば中継ぎの現王から譲位を受け、正当なる天人王として、名実ともに“空を往く者”たちの筆頭となる。

 その公式な第一歩が、いよいよ明日。
 夕べから催される前夜祭では、主催者として叔父・現王ミカエルと一緒に賓客を労い、もてなすことになっている。未来の天人王のお披露目とあって、各国の使節は値踏みをするような眼差しでこちらを眺めることだろう。彼らを前に、身分に相応しく凛と振る舞えるだろうか。少しだけ気が重いルシファーだった。

「……大丈夫。父上が一緒だし、オレも傍についてるから」

 従兄の声は優しい。いつだってそうだ。沈みそうになる気持ちを掌でそっとすくい上げてくれる、柔らかな声と表情。先の戦で海人国に囚われたとき、傷だらけになりながら真っ先に飛んできてくれたのもこの従兄だった。大好きな兄。もし彼がいなかったら、きっと今の自分はここにいない。いつの日か即位して王となっても、彼の前でなら肩の力を抜いて笑えるだろう……。

「うん、ありがと。ジルお兄様大好き」

 なんだか切なくなって、思わず背中に抱きつくと、礼服に焚きしめられた香がほのかに匂った。彼の優しい羽根の色によく似合う香り。途端に嬉しさがこみ上げてきて、笑いがこぼれる。

「こらルゥ、ふざけるなって。もう立派なレディなんだから」
「レディは明日から。今日はまだ子ども、ってことで。ねっ」
「ったく……どうしてこんな甘ったれに育ったのやら。そんなんじゃ婿の来手がいないぞ?」
「未だに婚約もしてない人には言われたくないー」
「オレは理想が高いの」
「へえ、どうだか」

 窓辺から差し込む午後の光と、盛装に身を包んだ従兄。くすくす笑い合いながら二人して長い廊下を歩くのに夢中で、いつの間にかルシファーは気鬱をすっかり忘れ去っていた。

 *

 前夜祭は粛々と始められた。
 絢爛たる大広間を縦断するように緋毛氈が敷かれ、上座から向かって右は国賓席、左には招待席。誰もが優美に着飾り、上座に誂えられた主催者席を見つめている。広間を埋め尽くさんがばかりの来賓席に比べれば、主催側である天人王族席の面積はごく慎ましやかなものだった。国王夫妻とその子息、そして祝祭の主役である世継ぎの姫。それが王室直系の全容なのだから。

 慶賀式典の要は明日で、今日のところは簡単な挨拶と面通しである。ルシファーは視線の集中豪雨を浴びながら、背筋を正して叔父ミカエルの感謝の言葉に耳を澄ませていた。
 こういった挨拶の原稿を、秘書や官吏があらかじめ用意しておく場合もあるのだが、今回は王自らが書いたものである。要点は簡潔に、視野は広く、飾りすぎない表現で。内容にしろ朗々たる語り口にしろ、老練な先達に劣らぬ見事な謝辞だった。挨拶だけではない。政治、外交、国事行為……叔父から学ぶべきことはまだまだたくさんあるのだ。身が引き締まる思いだった。

 やがて太陽が沈む頃には儀礼的なものが一通り済み、会場は吹き抜けの広間へと移された。舞踏会や芸術展などに使われることの多い場所で、一月ほど前に従兄と心ゆくまで踊った件も記憶に新しい広間である。今夜は有能な城勤め人たちの手によって格式高い夜会の場へと早変わりし、見目麗しい宮廷の晩餐が澄まし顔で幅をきかせていた。

(ふう)

 ほんの一口、冷たい果実ジュースが喉を通り抜ける。ルシファーはそっと息をついた。
 緊張はだいぶ薄まっているが、やはり大勢に注目され続けるというのは精神衛生上よろしくない。見られれば見られるほど、お化粧や衣装の状態が気になって仕方がないのである。確認しに控えの間へ駆け戻りたいのをぐっと堪えて、世の貴婦人はみな晴れの舞台に立つものなのだろうか。おまけに自分ときたら、緊張して普段使わない部位の筋肉を使っていたに違いない。さっきから妙に肩が凝るし、クッションのきいた長椅子の柔らかさをありがたく感じるなど、重症の証拠だ。

 とりとめなく考えていると、突然目の前に小皿が差し出された。季節の生野菜の和え物、果物の盛り合わせ、そして皿を手にした従兄と叔母。順番に眺めてルシファーは顔を綻ばせた。

「今のうちに食べておいた方がいい。みな、適当に料理をつまんだらこちらに挨拶に来るぞ」

 そう言う叔父は、すでに挽肉の練り包みを攻略しにかかっている。周囲に目をやれば、国ごとに用意された円卓を前に、長椅子にもたれてそれぞれ談笑と食事に花が咲いているようだった。

「頂戴します」

 宮廷楽師団の奏でる穏やかな曲が、吹き抜けをゆるりと昇っていく。どの料理も温かく、幸せな味がした。