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Tearful Day (2)

「ルシファー王女殿下、此度は誠におめでとうございます」

「宰相殿、ありがとうございます。地人王陛下によろしくお伝えください。造園大国である貴国には一度お邪魔してみたいと思っておりますわ」

 天人国の伝統晩餐でお腹が暖まった頃、ミカエルの言ったとおり、各国の使節団が続々とルシファーの席を訪れ始めた。
 一人ずつ挨拶をかわし、話をする。お国の風土のこと、新事業のこと、王族の動向のこと。時折ミカエルが会話に介添えしてくれるおかげで、初めはややぎこちなかったルシファーも話題を楽しめるようになっていった。

「それはぜひとも。我が王自慢の庭園群をご覧にいれましょうぞ。もっとも、城同様、いささか風変わりなものが多くありますが」
「ああ、そういえばそちらさまでは先年、王城の増築にあたって新進の建築家を起用なさったとお伺いいたしましたが、もう着工なさっておいでですの?」

 婉然たる微笑を絶やさず、目線を泳がせず。相手の話に相槌をうち、切り返す。話術は奥が深い、と言っていた家庭教師の言葉は本当だった。微妙な言い回しの差異で、場の雰囲気に違いが出てくるのが分かるのだ。
 だが会話の妙を楽しむのはこの際二の次で、賓客の顔と役職、名前を覚え込むことがルシファーの最優先課題だった。

(ちょっとくらい、いいよね)

 しばらくして、挨拶にやってくる人の流れが途切れたのを見計らって、ルシファーは席を外した。人々の間をなるべく優雅に通り抜け、控えの間へ。次第に夜も更けてきて、化粧崩れが気になるのだ。
 奥の支度部屋に入るなり、専属の侍従女官が待ち構えていたように群がってきた。女官長の号令一下、こちらが何も言わずとも身繕いを始めてくれる。髪の花飾りがてきぱきと挿し直され、唇に紅が引かれていく様を、ただおっとりと見つめた。

「さ、姫様、お支度が整いましたよ」
「ありがとう。さっきからお化粧やら髪やらが気になって仕方なかったの」

 巨大な姿見に映ったルシファーは、どこからどう見ても特権階級の娘だった。よく手入れされた蜂蜜のような金髪と白翼も、野良仕事を知らない繊細な指先も、身体を飾った宝石や可憐なドレスも。自分を彩る全てが地位と身分を物語っている。

(“与えられているものと背負うべきものは等価”……だから)

 これに釣り合う義務を果たさなくてはならないのだ。大戦にあっては常に最前線で敵を阻み続けた両親のように。そして戦後の復興に心血を注いできた叔父のように。それがローランスの血統に生まれついた者の定めなのだと、ごく自然に考えられる。

 天人国のために、この国に住まう民のために生きよう――十四歳最後の夜の真剣な想いが、ルシファーの胸をひたひたと満たした。

 その余韻が醒めやらぬうちに自席へ舞い戻ると、ちょうど新たな賓客が挨拶に近づいてくるところだった。団体ではなく一人で歩み寄ってきた珍しい客人は、海人国王軍総帥。人魚を象った流麗な襟章からそうと知れた。
 歓迎の笑みを口元に湛えたルシファーと若い武人の視線が、その瞬間、交錯する。

(え……?)

 思いもよらぬことだった。言い知れぬ何か、得体の知れぬ直感のようなものの気配が、唐突に、確かに、胸中に湧き起こったのだ。

「お初にお目にかかります……お会いできて光栄ですわ、総帥閣下」

 けれどもルシファーは、とっさに感情の火花を抑え込んだ。蒼氷色をした青年の瞳から目が逸らせない。一体どうしたことだろう、語尾が震えてくるほど動揺するなんて。

「こちらこそ、お目通りいただきましてありがたく存じます」

 ややあって返ってきた声は、殊の外のびやかで若々しく、ルシファーの戸惑いをさらに深めた。礼装の上からでも分かるほどに引き締まった体躯、蒼氷色の強い眼差し。ひょっとしたら自分とそう歳が変わらないのかもしれない。

「天人王陛下におかれましても、日々ご精勤され、ますますご健勝とのこと。此度の慶事、衷心よりお祝いを申し上げます」

 青年はルシファーの傍らにいたミカエルに礼をとり、怜悧な貌をゆるりと伏せる。さらりと流れた蒼氷色の髪に、ルシファーは束の間みとれた。
 天人国にはない髪色なのに、いつかどこかでこんな髪を見たような気がして胸が痛い。どうしてだろう──

 底しれぬ淵を覗き込んでいるような感覚が奔流となって押し寄せてきて、思わずルシファーは後ろに控える従兄を目で捜した。しかしジブリールはいつもと違って視線を返してくれず、海人国の若き総帥を見据えている。

 その瞳が不意に見開かれたとき、惨劇は起こったのだった。

 *

 何度思い返してみても、浮かんでくるのは蒼氷色の清冽な印象ばかり。

「こちらこそ、お目通りいただきましてありがたく存じます」

 既視感を抑えつけて必死に挨拶をしたら、意外にも伸びやかな声が返ってきて驚いた。

「天人王陛下におかれましても、日々ご精勤され、ますますご健勝とのこと。此度の慶事、衷心よりお祝いを申し上げます」

 武人らしい『精勤』という物言いがなんとなく好ましくて、動作に伴って流れる髪がとても綺麗で。

 なのに彼は、伏せていた顔を上げると、感情のこもらない声で言い足したのである。「だが、それも今日でお終いだ」と。

 そして次の瞬間には斬り倒していた。国王ミカエルと、降りかかる凶刃から国王を庇おうとした、ジブリールを。

 大広間を静寂が支配する。
 血に濡れてなお、青年は氷柱のような目をしていた。吸い寄せられて、目が離せない。たちこめる血臭。忌まわしい戦場の臭い。悲しい別離の臭い。誰も一歩も動けない。

「これは報い。八年前から王の片割れは眠り続けたまま、もはや目覚めない──」

 数瞬遅れで巻き起こった嵐のような悲鳴と怒号の中、彼の呟きだけがはっきりと耳に届いた。青年はこちらを見つめている。標的としたミカエルでも、とっさに割って入って『報復』を妨げたジブリールでもなく、ただ立ち尽くすルシファーに視線を留めたままだった。

 青年の薄い唇が、また何事かを呟いた。もう聞き取れない。
 濃い、濃い血の臭い。身体が動かない。目の前が薄曇り、急速に暗くなっていく。

 最後に、立ち去る青年の横顔が垣間見えた。ひどく胸を締めつける深い色をした瞳。悲哀、諦念、安堵、嫌悪──様々な感情を凍てつかせた、切ない蒼氷色だった。

 まるで泣いているようだと思った。
 その双眸を、ルシファーは後に幾度も思い返すこととなる。


 END