ファンタジースキーさんに100のお題

001. 砂の城


 それは、初めて海を見た日のことだった。

「うわあ、すごい!」

 目を細めながら、幼い少年は歓声を上げた。
 どこまでも広がる大海原。夕陽の色が海面に溶けて、眩しいほどに輝いている。湾ではない。遠い大陸へと繋がる外海である。
 今はもう泳げるような時節ではないが、少年は波打ち際に駆け寄った。潮の匂いが鼻をくすぐる。髪を撫でていく風すら、独特の香りに染まっていた。

「これが……海」

 空と海とが、遥か彼方で交じり合う。セレシアス少年を圧倒したのは、その壮大さ、鮮やかさ。想像していたものよりずっと大きく、そして神秘的だった。
 寄せては返す波……波……波……。潮騒が、ひどく耳に心地よいのはなぜだろうか。

「ね、素敵でしょう」

 乳白色の髪が風に舞った。エリッサは微笑みながらセレシアスの隣に並び立つ。

「見てごらん」

 浜辺の近くは青緑色、沖合のほうは紺碧。沈みゆく日輪の周囲は茜色。空と同じように、海もまた、微妙に異なった幾つもの色彩に満ちている。まるで宝石箱のようだ、とセレシアスは思った。

「これから毎日海が見られる?」

 もしそうなら、どんなにか楽しいだろう。朝早くには漁船が行き来する様子を眺められるだろうし、昼には波打ち際で漂着物を検分できる。この浜辺は格好の遊び場になりそうだ。
 しかしエリッサは、曖昧に微笑むばかりで質問に答えない。その困ったような微笑を見て、セレシアスは悟った。

(こんどの町も、あんまり長くはいられないのかな)

 これまでもそうだった。エリッサが、一つ処に長く住むのを厭うのである。
 長くて一年。短い時は、わずか数週間で引っ越しの仕度に取りかかってしまう。
 セレシアスは義務教育課程の最中なのだが、そのたびに転校を余儀なくされて、今では休学状態になっていた。それでも教科書に載っているようなことは全てエリッサが教えてくれるし、学舎に行っても怖がられるか無視されるか、どちらにしろ気鬱になるので、学校へ通いたいとは思わない。

 だからセレシアスは、いつもエリッサと二人きりだった。
 彼女と二人、一体幾つの町や村を通り過ぎてきたのだろう。物心ついた時には、すでに流浪の日々だった。
 近所に住みついた野良猫や、こっそり植えた花や……もう二度と目にすることはないのだと思うと、離れがたくなる土地もあったけれど、それでもやはりセレシアスにとって、世界の中心はエリッサだった。

 エリッサが「行く」と言えば、一緒に行く。そうやって日々を過ごしてきた。きっと、これからも同じ。
 なぜエリッサが移ろい続けるのか、その理由はよく分からない。

「あの人が、いないから」

 かつて理由を訊ねた時、ぽつりとエリッサは呟いた。その悲しげな横顔が、今でも忘れらない。
 それきりセレシアスは、定住しない理由を訊こうとはしなかった。
 そして今回も、この新しい町でどれくらいの時間を過ごすつもりなのか、セレシアスには全く推し量れない。ひょっとしたら、彼女自身ですら分からないのかもしれない。
 またエリッサは、その場しのぎの言葉を決して口にしない。ただ、困ったように微笑むだけ。

「じゃあ、明日、また来てもいい?」

 半年後、一年後の見通しは立たないけれど、せめて明くる日ならば。セレシアスはエリッサを見上げた。彼女の蒼い双眸は、水面の光を映して煌いている。

「ええ。明日、また来ようね」

 その答えを聞いて、セレシアスはようやく笑顔を取り戻した。つられるように、エリッサも笑み崩れる。

「お城、作ろうか」
「おしろ?」
「そう。こうやって、砂を固めて……。ね、やってごらん」

 足元の砂浜はほんのりと温かく、セレシアスは夢中になって砂遊びを始めた。
 ──穏やかな空間だった。夕映えの海は凪ぎ、隣には優しく暖かい人。
 不意にエリッサが言った。

「このお城には、誰が住んでるのかな?」
「僕と、エリッサ」
「二人だけ?」
「うん。でも、いつか三人で住めるように、広いおへやもあるんだよ」

 無心に砂を固めながら、セレシアスは答える。はっとして手をとめたのは、エリッサのほうだ。
「僕がもっと大きくなったら、こういうおうち、つくってあげるからね」

 城は、いつの間にか大きな一軒家に姿を変えていた。
 尖塔の代わりに煙突が、城門の代わりに玄関がついている。小さな花壇つきの庭があって、そこで白い犬が駆け回っているような、ごくありふれた一戸建て。
 砂が乾き始めたせいか、少し端々が崩れかけているけれど、その出来映えにセレシアスは大いに満足した。確認するように、ゆっくりとエリッサに告げる。

「僕たちの、お城だよ」

 潮が満ちれば、波にさらわれ溶けてしまうだろう。
 通りかかる人があれば、戯れに踏みにじってしまうだろう。
 儚い、束の間の砂城。
 けれど、ひとかけらの夕陽に照らされたその一軒家は、とても美しく見えた。
 いつか壊れてしまうものでも、今、こうしてここに在る。セレシアスには、それだけで充分だった。

 やがて太陽が水平線の向こうに消えた頃、二人は手を繋いで帰路につく。
 彼らの話し声が遠ざかった後、砂浜に残されたのは、一風変わった砂の『お城』。
 ただ寄せては返す波だけが、その光景を見ていた。


 END