ファンタジースキーさんに100のお題

003. 天界


「退屈だわ……」

 嘆息まじりの独り言は、静まり返った部屋に思いのほかよく響き、呟いた本人をぎょっとさせた。
 もっとも、この広い観測室にいるのは自分一人だけ。いくら独り言を言おうが問題ないのだが。

「あーあ。毎日これじゃ、やんなっちゃう」

 改めてため息をつくと、少女は盛大に愚痴をこぼし始めた。
 幾つかの計測機器。分厚い観測日誌。曇りひとつない玻璃が嵌められた壁面。何もかも代わり映えせず、いつもと同じ。掃除や整頓はすでに完璧である。
 やるべきことが、ひとつも見当たらないのだ。かといって、勝手に持ち場を離れるわけにもいかない。少女──エリーゼは飽き飽きしていた。

「暇すぎて肩は凝るし」

 勤務中にこれほど時間を持て余す職場が、他にあるだろうか。じっと座っていると逆に身体が疲れる。そんなことを、エリーゼはこれまでちっとも知らなかった。
 投げやりな気分で伸びをひとつ。伸びをすると、背中の翼の付け根がほぐれて快い。激務に忙殺されているのならともかく、暇を持て余して肩凝りとは、どうにも腑に落ちないものだ。エリーゼは長々と嘆息した。

「観測係って、ほんと退屈」

 一面の玻璃窓を睨みつけても、視界いっぱいに雲海が広がるばかり。
 こんな雲の上の世界では、天候の変化があるはずもない。もちろん鳥たちの飛行領域より遥かに上空だ。雲上の世界は、風景に関してはただひたすらに退屈だった。

「大体、観測が見習い天使の仕事だなんて、どうかしてるわ」

 彼女の口上はなおも続く。


 雲の上をゆったりと遊弋する、巨大な浮き島。
 空に在る唯一の島にして、天帝の御座所。人はそれを『天界』と呼ぶ。
 天界は刻々とその位置を変えるため、地図に載せることは無論、地上の者にはその現在地を知ることもできない。

 エリーゼは、生まれた時からそんな島に住んでいた。
 母親譲りの金髪と闊達な性格を除けば、目立ったところのない少女である。この春、念願叶って選定試験に合格した時は、これで天使という栄誉ある職業に就けると歓喜したものだった。
 そして登録後、見習い天使エリーゼに与えられた当面の仕事は、観測係。刻々と移動する天界の現在地を記録し、その軌跡を把握するのが役目だ。エリーゼは張り切って初仕事に向かった。

 ──が、どこまでも同じような風景が続く空の上である。観測室に一人きり、定時の記録を終えてから次の観測時刻を待つまでの間、エリーゼの目を楽しませてくれるものは何もなかった。
 これでは、いかに仕事とはいえ次第に倦んでくる。同期の友人は「係員だなんて凄いじゃない」と羨ましがっていたが、掃除や書類整理などの雑用の方が、どれだけマシだろうか。
 近頃では、がらんとした観測室が独房のように感じられる。

「早くお昼にならないかなぁ……」

 鬱屈した気分を抱えたまま、エリーゼは大空を見渡すのだった。


 *


 同じ頃、資料室では。

「……あら?」

 アイシェは首を傾げた。忙しなく本棚を整頓していた手が、ふと止まる。
 ずらりと並んだファイルの背表紙。一見、何の異常もないように見えるが……

 207 208   210 211

 二〇九番のファイルが、見当たらない。

「変ね? ラジエル様は全部揃ってると仰ってたのに」

 近くの棚に視線を滑らせてみる──ない。
 書類が山積した事務机をかき回してみる──ない。
 今日のアイシェに与えられた仕事は、この資料室の整理整頓である。消え失せたファイルを探し出すことまで命じられていないのだが、一冊分だけ間が空いているというのは、どうにも気持ちが悪い。

「仕方ないですね。探すとしますか」

 ファイルの行方不明はアイシェの過失ではないので、別に見つけ出さなくとも咎められはしまいが、ここで探さずにはいられないのがアイシェの性分だった。そして、やるとなると、手抜きができないのだ。
 緩やかにまとめた栗色の髪をきっちり束ね直すと、アイシェは資料室を片っ端から捜索し始めた。


 *


「北緯四十二度、東経二十二度。移動速度、異常なし。軌跡更新、っと」
「あんな分厚いファイル、一体どこに行っちゃったのかしら」

 エリーゼとアイシェ。後に二大天使にまで上り詰める彼女らだが、この時は一介の見習いにすぎなかった。
 二人が出会うのは、この数年後。正天使に昇進した際の叙任式典でのこと。『天帝の双翼』と讃えられる二大天使の友誼の始まりも、そこからだった。
 長い長い月日を経て……彼女らの固い結束が、天界の行く末すら左右することを、まだ誰も知らない。

 ここは天界。天上人の住まうところ。
 二人の見習い天使は、未だ互いの存在を知らない。


イラスト:宮渕様