ファンタジースキーさんに100のお題

011. 称号


 初めて会った時のことを、今でも鮮明に覚えている。

 その日の義父──董卓は朝から上機嫌で、気もそぞろに執務を切り上げたと思ったら、女官に酒宴の用意を命じて太師府から姿を消してしまった。
 あの様子では、どうやらまた新しい女を召し上げたらしい。またか、という以外に言いようがない。董卓は都中をさらうようにして美女を集めたが、それでもまだ足りぬと見えて、よそから頻繁に女を仕入れてくる。専制を敷く董卓に取り入ろうと、娘や姉妹を差し出す官吏も少なくないのだから、董卓の私邸と化したビ城が女で溢れ返る日も近いかもしれない。

 呂布(りょふ)にとって、董卓の女好きは理解しがたいもののひとつだった。絹にくるまり、化粧や珠で身を飾り、男に媚びる。女など皆同じではないか。数を揃えてみたところで一体何が面白いのか、と思う。
 しかし董卓は、いったん私邸に入るとなかなか出てこようとしない。まだ日が高いというのに、まったく呆れたものだ。父子の契りを結んだ相手とはいえ、呂布は閉口を禁じ得なかった。
 奥棟に入って警護をするわけにはいかない。宵入り時に予定していた都の巡回を繰り上げようと、呂布は踵を返した。

(董太師の気まぐれはいつものことだ)

 詰め所に向かう道すがら、とりとめもなく考え事をした。
 このところの董卓は政事への関心が薄くなっていきている。帝の身柄を掌中に収め、詔書を出し、朝廷を意のままに操る権力を得たことで、董卓の中の何かが冷めたのかもしれない。もともと飽きの早い性向だ。
 酒の匂いを充満させた息を思い出し、呂布はかすかなため息をついた。「冬狩にはあの森がいい」「気にくわないからあの下官の首を刎ねよ」だのと、董卓の振るまいは日ごとに奔放さと暴虐さを増していく。

(……俺には関係のないことだが)

 赤兎馬と共に思うさま駆けられる戦場さえあれば、あとは多くを望まない。官位や禄などに興味はない。麾下の軍勢を鍛え、ただひたすらに己の武を試す。そうやって今まで生きてきた。

「巡回に出る」

 一言声をかけるだけで部下全員が機敏に動き始める。遅れる者などいない。この呂布直属の騎馬隊は比類なき精鋭揃いなのだ。
 厩舎の戸をくぐると、出動の気配を察したのか、赤兎馬が鼻先を寄せてきた。方天戟を携えて乗馬する。

「行くぞ、赤兎」

 軽く腿を締めると、赤兎馬は意を得たように駆け始めた。
 一日に千里を駆ける赤兎馬と、立ちふさがる者全てを倒してきた方天戟。そして手足のように動く麾下。
 呂布、字は奉先(ほうせん)。彼はこの時すでに最強の将軍として名が轟いていた。漢王室の行く末を憂え、董卓の悪政を糾弾せんとする者も、董卓配下の常勝将軍たる呂布を恐れて長安に矢を向けることを思い止まるほどに。
 しかし呂布はそんな称号など意に介さない。人がどう呼ぶかなどどうでもいいのだ。戦。頭にあるのは戦うことだけ。それが呂布奉先という男だった。

(早く戦になるといい)

 この長安は退屈だと、赤兎馬が訴えているような気がした。


 *


 宵の口になった。
 呂布が太師府で方天戟の手入れをしていると、使いの者がやって来て「宴の席が調ってございます」と言う。どうやら今度の女は自慢したくなるほどお気に召したらしい。面倒ではあったが、董卓の呼び出しとあっては理由なしに欠席するわけにもいくまい。袍を改め、案内されるままに内殿へと足を運ぶ。
 闇を拭うように明かりを放つ燭台、芳ばしい酒肴、肥った身体を揺すって笑い声を上げる董卓。
 そして……呂布は彼女と出会った。

貂蝉(ちょうせん)と申します」

 帯珠の揺れる涼やかな音色。一礼する仕草は天女のように優美で、声は玲瓏として耳に心地よい。

「どうだ、美しいだろう。歌や舞もすこぶる得意でな」

 ほくほく顔の董卓が自慢を始めるまで、呂布は娘に見惚れていたことに気付かなかった。思わず声がかすれたが、董卓はお構いなしに新たな妾の美点を並べ始める。
 呂布は貂蝉から目が離せなかった。

「ご高名な将軍様とお会いできて光栄ですわ」

 顔を上げたその瞳の、なんと麗しいことか。憂いを帯びた目元に、透徹した意志が浮かんでいる。
 彼女の双眸を目にした途端、胸を突かれた。
 貂蝉の方も呂布から視線を逸らさない。国内随一の猛将と恐れられる男の、高い位置にある顔を見上げて、白桃の頬を鴾色に染めている。
 彼女の目に、今の自分はどう映っているのだろうか。ふと呂布は思った。
 慣れ親しんだ具足を解いて高価な袍を着込み、数えきれないほどの女を侍らせた酒宴に参じる。これではまるで董卓と同じだ。武将らしくは見えないかもしれない。

 雨を含んだ梨花のような貂蝉を前にして、呂布は妙に慌てている自分を発見した。たかが女。そう言い聞かせるも、結局は無駄な努力に終始してしまう。

「さあ貂蝉や、お前の舞を見せておくれ」

 董卓の猫なで声に応えて、貂蝉が舞う。馥郁とした香り、哀切な箏曲と澄んだ歌声に乗り、呂布の前で舞姫の袖がふわりと翻る。
 不意に目が合った。悲しみの中に浮かぶ決意。貂蝉の瞳は凛然とした輝きを宿し、呂布を捉えて離さない。

(この眼差し。どうしてそなたは……)

 艶やかな絹の裳裾がさざ波のように揺れていた。


 *


 董卓の寵姫となった貂蝉の美貌はますます透明感を増し、憂いの園に咲く幻の花のようだと謳わるようになった。

(貂蝉……今頃どうしているだろうか)

 日々精勤する呂布が彼女と会える機会はごくまれにしかなかったけれど、貂蝉の眼差しを忘れることはついぞできなかった。
 普段の貂蝉はビ城の奥深くにいて滅多に出てくることはない。董卓が掌中の珠のように偏愛しているせいもあった。小心で疑り深い董卓は、貂蝉が不用意に男どもの目に触れるのを嫌うのだ。
 呂布にできるのは、ただ彼女の姿を脳裏に思い描くことだけ。

 回廊に囲まれた広大な庭園──睡蓮の咲く池があり、美しい色の鳥と魚が放された小川がある。白い石柱でできた東屋と、そこに腰掛けている柳のようになよやかな人影。貂蝉。柔らかな陽射しに目を細め、人待ちげな様子で辺りを見ている。
 やがてその頬がみるみる鴇色に染まり、珊瑚色の唇が待ち人の名を囁いた。
「奉先さま……お待ちしておりました」
 ──夢想はいつもそこで途切れる。

 想いを胸に秘めた呂布は、より一層無口になり、武勇に更なる磨きをかけていった。堕落の限りを尽くす董卓をよそに、呂布の鬼神のごとき強さだけが広く一人歩きしていく。
 『最強』。その称号は呂布のためにのみ在った。
 戦場に呂布ありと聞くだけで敵は怖じ気づき、真紅の悍馬に跨った呂布が方天戟を振り上げるだけで戦意を失う。

「俺を楽しませることができる奴はいないのか!?」

 血が沸き立つ。猛り吼え、赤兎馬が駆け抜けた後に立っている敵兵など一人もいなかった。ことごとくが地にくずおれ、ただ戦場の土と化す。
 吹き荒ぶ砂塵をものともせず、『呂』の旗を掲げた漆黒の軍勢は一頭の巨大な獣のように突き進む。
 その先頭には常に呂布の姿があった。

 呂布と董卓。そして貂蝉。
 三者の関係がやがて時代を動かすことになるのだが、それはまた後の話。


 END