ファンタジースキーさんに100のお題

017. まったく…


 夜の帳が舞い降り、燃え盛る篝火が風に揺れる。
 戦陣の只中、緊張を敷き詰めた一夜が始まろうとしていた。平原に穿たれた激しい戦闘の跡もすっかり闇に包まれて、煮炊きをする煙や夜襲を警戒する哨戒(しょうかい)兵、武具のこすれ合う音と馬のいななきなどが入り交じり騒然としている。

 夜明けと同時に対峙を始めた()軍との戦は未だ決着がつかず、小高い丘を挟んでの野営にもつれ込んだ。敵の指揮官は、猛者揃いの魏将の中にあっても一際抜きん出て名高い軍人である。そう易々と組み敷くことはできまいと理解している兵卒たちは、分配された兵糧(ひょうろう)を腹に収めると、軍馬の世話や武具の手入れに精を出し、やがて割り振られた天幕で交替に仮眠をとる。

 しんしんと夜は更けてゆく。
 冴えた満天の星々の下、篝火に薪を補給する頃が過ぎ、周囲の天幕で兵たちが寝息を立てる時分になっても寝静まらない幕舎がひとつだけあった。


 *


「このバカ者!」
「ばっ……バカとはなんだ!」
「バカをバカと言って何が悪い? どうしてすぐに診せに来ないんだ、このバカ。浅い傷とて甘く見るなと常々言っているだろうが」

 玲瓏たる女性の声で勢い良く怒鳴りつけられて、馬超は怯んだ。
 毎度のことながらなぜか“彼女”には頭が上がらない。いや、今や蜀軍の専属軍医として激戦地を巡るこの年若い名医に逆らえる者などいやしないだろう。
 女だてらに各地の無医村を渡り歩いて習得した医術を実践し、いつのまにか蜀に居ついた変わり者の医師は、歴戦の猛将を叱り飛ばす間にも手早く布を消毒液に浸して傷口に押し当てる。当て布を敷いて包帯を巻くその手つきは、口調とは裏腹に丁重そのもの。

「いいかバカ馬超。傷自体は浅くても、傷口から体内に雑菌が入り込めば膿む。熱を持ち痛みを伴う。些細な傷だからと放置しておくと後が恐いんだ。二度と槍を握れなくなってもかまわないというのなら話は別だが」
「すまない……承知した」
「本当に分かったのか? そんなしょげたフリしても誤魔化されないぞ。私はこの前も同じことを言ったはずだ。今度ケガの手当を怠ったら(きん)馬超は脳みそも筋肉でできてる武者バカだと言いふらしてやると」

 五虎大将の一人に数えられる馬超に向かってこの言いぐさ。おまけに本名を呼び捨てである。知らない者が見たら卒倒しかねない光景だった。

「ただでさえこの軍は突進型の輩が多くて大忙しなんだ。あまり煩わせてくれるな」
「うむ。かたじけない」
「今日は早く休めよ」

 横柄に言い放つ彼女の方こそ、働きづめで目を充血させていることに馬超は気付いていた。白衣を翻して片付けを始める様子に疲れは見えないが、戦場にただ一人の非戦闘員である彼女がどれほどの緊張にさらされているかは想像に難くない。

「そなたももう休むといい。……ではな」

 逡巡した挙げ句にやっと馬超が告げたのはそれだけだった。
 軍医は背を向けたままひらひらと手を振る。


 馬超が自分の幕舎に戻ると、簡易な武装姿で馬岱(ばたい)が出迎えた。従弟の口元に苦笑が浮かんでいるので、馬超はきまり悪げに背中を向け、着替えを始める。

従兄(あに)上、また軍医殿に絞られていましたね」
「ああ。その派手な兜の下の脳みそは筋肉でできているのかと怒鳴りつけられた」
「魏延殿や黄忠殿も先程だいぶきつい雷を落とされたようですよ。本当にあの方ときたら容赦がない」
「まったくだ。戦場での一騎打ちなら誰が相手でも負ける気はせんのだがなあ」

 従兄上、と改まった声で呼ばれて馬超が振り返ると、馬岱の真摯な眼差しにぶつかった。

「あまり、猛進はなさらないでください。このようなことを申し上げるのは差し出がましいようですが」

 馬岱の言わんとしていることはすぐ察しがついた。
 馬超と馬岱、二人は従兄弟同士だが互い以外の血縁者は一人もいない。一族郎党みな死んだ。馬超の父である馬騰(ばとう)をはじめ、帝を掌中に収めた曹操に騙し討ちのようにして殺されたのだ。女子どもも例外ではなく、呼び寄せられて獣のように狩られたという。西方に出征していた二人だけが免れたのだ。
 仇討ちを叫んで涼州に決起し、曹操を攻めたものの、あとわずか及ばずに落ち延びるはめとなった。やが劉備と出会い、彼のもとで槍を振るうに至る。

「心配せずとも無駄死にはすまい。この槍と、錦馬超の名にかけて」

 魏すなわち曹操を相手取った戦。この従弟は血気にはやりがちな自分を憂慮しているのだ。馬超は笑って槍を取り、掲げてみせた。

「そう……ですね。それに、軍医殿が怖いことですし?」
「な、何を言う! そういう岱こそ、張り切りすぎて無駄にケガなどしてみろ。やけに染みる薬をぎゅうぎゅう塗られて罵詈雑言の嵐、完治するまで脅し文句の連発だぞ?」
「謹んで遠慮したいものです」

 二人は互いの表情を見てひとしきり笑い合った。


 *


「こんっのバカ者どもめがー! 二人揃ってケガとは何事だー!」
「いや、俺は岱が敵陣に食い込みすぎたのを援護しようとしたのだ」
「何を仰います従兄上、そもそもあなたが突撃したので私はやむなく」

 魏軍を見事撃退し、追撃を終えて凱旋準備に入った蜀軍だったが、救護用の幕舎では喊声(かんせい)に勝るとも劣らぬ怒声が響いていた。
 軍をまとめて被害状況を把握し、撤退の支度にかかっていた馬超と馬岱が、腕に負った軽い傷の手当てを後回しにしていたせいで、目ざとい軍医に見咎められて救護所に放り込まれたのである。

「今は部下たちに指示を出せねばならんのだ。手当てならあとで」
「駄目だ。手当てが先」
「そうだ、魏延も足にケガをしていたぞ! あやつから先に診てやった方が」
「魏延ならもう診た」
「先鋒を務めた趙雲殿の隊員は?」
「さっき診た。どこかの大将と違って兵卒は素直に診せにくるから大変よろしい。位が上になればなるほど傷の手当てを怠るってのは一体どういうわけなんだか」
「うう」
「従兄上、もう口答えしない方が」
「こっちのバカと違って馬岱は賢明だな。いいな馬超、昨日のケガと先月の傷口も一緒に診る。すぐ済むから黙って座っていろ」
「………………承知」

 不機嫌な顔つきで傷を診る軍医はこの上なく尊大そうで、極めつけに口が悪い。それでも軍医としての腕は抜群だし、完治するまで丁寧に配慮してくれる。彼女が従軍するようになってから、傷を受けた後に悪化して四肢切断を余儀なくされる者や後遺症に苦しむ者が格段に減ったのも事実。

 名の知られた華々しい武勲の持ち主が多い蜀軍は、ともすれば我が身を省みずに突撃するような勢いがあるが、それと自棄とは紙一重である。自重と怯懦の境界──「この乱世にあって、彼女はそれを考えさせてくれる貴重な存在だ」と劉備が言っていたのを思い出して、馬超は深く嘆息した。

 身分の区別なく手当てをして叱り飛ばす軍医。確かに一人くらい、こういう人材が必要かもしれない。諸将は彼女の態度の悪さに最初こそ驚いていたものの、今ではもう当たり前に受け入れている。そう、自分同様に。
 なぜだか無性に愉快になって、思わず馬超は晴れやかに笑った。

「ため息つきたいのはこっちだ、まったく」
「ああ、すまんな」
「なに笑ってるんだよ? 忙しい奴だな」
「なんでもない。いつも世話になるな。感謝している」

 殊勝な物言いを変に感じたのか、気味の悪い生き物を見る眼差しで軍医が馬超を眺める。上から下までしげしげと見つめて、やがて気遣わしげに指先がそっと頬に触れてきた。

「ひょっとして頭を打ったのか……?」

 苦笑を浮かべながら馬超が兜を脱ぐと、軍医はありもしない殴打の跡を探して髪に触れ始める。

「違う。思ったことをそのまま言っただけだ」

 ぴたりと手をとめ、軍医は一気に青ざめて馬岱を振り返った。

「馬岱! 大変だ! 重症だぞ!」
「ちょっと待て、それはどういう意味だ?」
「傷口は見当たらないが頭を打ったに違いない! あれほど言い聞かせても態度をまったく改めやしなかった馬超が、反省した素振りだけは上手いバカ馬超が、感謝!? これはまずいっ、すぐ殿に連絡を!」
「俺は正気だ!」
「乱心した奴はみんなそう言うんだ! いいから黙れ、頭のケガに障る!」
「頭にケガなどしておらん!」

 馬超の抗弁を綺麗に無視して、軍医は彼の武装を解き始める。さすがに手慣れたもので、鎧を脱がせ、籠手を外し、馬超はあっという間に袍姿になってしまった。馬岱は手出しはおろか口出しもできず、むりやり簡易寝台に寝かしつけられた従兄を達観した目で見るだけだ。

「普段の行いってやつですかねえ……」


 END