018. 変身
なあフク、そっちの居心地はどうだ?
こっちは相変わらずさ。くだらない奴、くだらない物事、くだらない毎日。だけど不思議と嫌だとは感じないんだ。何もかもがぼんやりと遠い。
自分自身さえも色褪せて、感情も思考も、過去も……全てが消え入るように遠くなっていく。
オレ、さ。人を殺してるんだ。
それも一度や二度じゃない。用意周到に計画を練って、命令されたとおり実行する“暗殺”。そのための技だって磨いてる。我ながらどうかしてるとは思うけど、いつのまにか暗殺班の一人になっちまったってわけだ。
今のオレを見たら、フク、あんたはなんて言うのかな……。
*
今夜もまたスイッチを入れる。
与えられた任務を遂げることだけを考え、澄んだ精神状態のまま淡々と暗殺を実行する暗殺者になるために。
≪桜花≫という地下組織に拾われて、首領ヒイラギからアニスというコードネームを授かった。暗殺班“夜刀”所属のアニス。任務に入る瞬間、スイッチの切り替わる音と同時にオレはアニスになる。
内省的な思考を全部閉め出して、情緒というものを押し潰すと、それだけでもうオレは空っぽの自動人形そのもの。見ず知らずの標的の死に顔も、掌に残った毒針の感触も意に介さない。ミッション完遂を確認して、痕跡を残さず撤収する。
「ミッション開始。……アニス」
リーダーに抑揚のない声で呼ばれてオレは歩き始める。袖に隠した凶器のかすかな感触を確かめながら雑踏の中へ。
調査班からもたらされた情報どおり、人の流れの中には標的の姿がある。さりげなく近づいて本人であることを確認すると、提げ持った手荷物を直すふりをしながら、街灯の切れ間を狙って首根っこに追い抜きざま毒針の一撃──。
しばらく流れのままに歩き続けて、不意に脇道へと逸れた。車で待機していた仲間と合流し、さらに別の場所で標的が自宅に戻った途端に昏倒する様子を確認してきた仲間と合流する。
針に塗り込められた毒物は一風変わった種類のもので、刺されても全身に毒が回り切るまで症状は何ひとつ現れない。ただし毒が回ってしまえば最後、もはや決して助からない。迅速で確実な死が訪れる。
あの男は首筋に小さな痛みを感じるが、死に至る過程で味わう苦痛はたったそれだけで済むのである。身体に力が入らなくなったことを訝るより先に脳が機能を停止しただろう。
ミッション完了。
現場を離れ、武装を解き、自分の部屋に戻って。
無軌道に世を蝕む咎人を狩り取ってきた報酬として、一両日中には口座に一定金額が振り込まれることになる。見ず知らずの男を殺した行為が幾らに換算されようと興味はないけれど、全く支給金がなくなればオレだって困る。その程度のことだ。
標的であると名指しされた人物が本当に死に値する者なのか、疑念を差し挟むことは許されていない。指定された人物が誰であろうと殺め、どんなに困難であろうとも殺し切る。ある意味これほど明快な稼業はないだろう。
ぱちん、とスイッチを入れれば、こうやって益体もないことをぼんやりと考える『オレ』は切り替えられて、機能的に任務に従事する『アニス』と入れ替わる。
それでいい。やがて何もかもが遠くなって、近い未来にきっとオレは壊れていくだろうけど……かまわない。なんとなくそんな気がする。
だからさ、フク。
人に危害を加えておいて、以前の自分と全く変わらずにいられる──なんて、とんだ幻想だよな。
確固たる信念? 復讐? 正当防衛? 覚悟?
それがなんだって言うんだ。人を殺し続けて正気でいられるはずがないじゃないか。
どうかしてるよ、みんな。
オレの周りにいるのは、そんなこと百も承知のイカレた奴ばっかりで、あんたを殺したあの連中みたいに遊び半分でやってる奴はいやしないけど。
それでも……ああ、やっぱりどうかしてるよ。自分にも他人にも関心のないオレがこうまで断言できるんだから、相当のものだろう。オレ自身も含めて、な。
なんだか今夜は疲れたみたいだ。
耳の奥にスイッチの入る音が響いて離れやしない。ひょっとしたら『オレ』と『アニス』の切り替えが悪くなっているのかもしれない。また、眠れなくなりそうだ。
濡れた手に血の跡などない。なのにどうしてこんなに鉄錆びた臭いが鼻と脳髄と肺腑を締め上げるのだろう。
薄闇の洗面台で顔を上げると、鏡の中に自嘲の笑みが浮かんでいた。
イラスト:虎霽翠様