022. 日常風景 (2)
「玄徳様!」
ぱっと輝くような表情で尚香さまは劉備さまに駆け寄り、対照的に趙雲将軍は武器を降ろして丁寧に一礼しました。
「精が出るな。稽古の邪魔をしてしまったか」
「いいえ、ちっとも。来てくださって嬉しいわ」
先ほどまでの緊迫した空気はゆるりと解け、ご夫婦の周りから柔らかな雰囲気が広がっていきます。
尚香さまを見つめる、劉備さまの眼差しのその優しいこと。歳の離れた妻を愛しいと思っておられるのは一目瞭然でした。
時間が空くたびにこうして尚香さまのもとを訪れて他愛のない話に興じる劉備さまは、政略上の駆け引きを超えて、嫁してきた年若い公主を心から大切に思っておられるのだと……今では私もそう信じられるようになったのです。
漢王室に連なる出自であることから、劉皇叔と呼ばれ慕われている劉備さま。
民草の心を掴んでやまないその理由は、元をただせば高貴な血筋、などということではなくて……
この城内でしばらく生活していれば自ずと知れましょう。尚香さまを包み込むあの眼差しの暖かさが、何よりも雄弁に物語っているではありませんか。
ごく自然に手を取り合ったご夫婦は、ゆっくりと東屋へ。
私は先に立って茶器の用意を始めました。
「玄徳様、明の淹れてくれるお茶はとっても美味しいのよ」
「そうか、それは楽しみだ」
「明はね、料理もすごく上手なの。ときどき厨房を借りて簡単なのを教わってるんだけど、わたし、兄様直伝の野戦料理しかしたことなかったから、難しくって」
向かい合わせに座ったお二人は、恐縮しながら給仕をしている私に楽しげな表情を向けます。
「おお、野戦料理か。いいな。今度、食べさせてくれぬか?」
「えっ、ほんとに?」
「南の牧場まで遠駆けしたときがよいだろう。豚がいるし、香草にも岩塩にも困らぬからな」
「嬉しい、楽しみだわ!」
「私も楽しみだ。早く執務を片づけてしまわなくてはな」
遠駆けと聞いてにっこり微笑んだ尚香さまと、そんな彼女を穏やかに見つめる劉備さま。お茶を口にするご夫婦の姿には、見る者の胸を少なからず打つものがありました。
あの日、憂いを帯びて笑った尚香さまが、今はこうして夫君の傍で安らぎを見出しているのです。身近に仕える者として、これ以上の喜びがあるでしょうか。
私は願いました。どうかこの幸福が続きますように。尚香さまの笑顔が陰りませんように。どうか乱世に、今しばらくの平穏を。
「おう大兄貴、邪魔するぜ!」
「美味い桃が手に入りましてな。これは蜜漬けです。奥方にと」
声と共に姿を現したのは張飛さまと関羽さま。張飛さまは果物籠にこぼれ落ちそうなほど盛られた桃を抱えて、関羽さまはすでに切り分けられたものを皿に乗せて。
お二人とも劉備さまの義弟で、それぞれとても優れた武将でいらっしゃいます。正室として嫁いできた尚香さまのことを何くれとなく気遣ってくださって、こうして差し入れをしてくださることもたびたびでした。
「美味しい! なんだか懐かしい味がするわ」
「南方で採れたそうです。奥方のお口に合うかもしれんと、兄者が言うもんだから」
「何を言うか。馬に積みきれんほど買い込んだのはお前だろうが」
「そうか、二人で買いつけに行ってくれたのだな」
「ありがとう。甘くてすごく柔らかいわよ。みんなでいただきましょう」
たちまち芳醇な香りが四阿に立ちのぼり、和やかに談笑する四人を包み込んでいきました。
弾ける笑い声。優しく吹き抜ける風。周囲に広がる目に眩しいほどの緑。
悠久なる長江の傍ら、うねるような熱気に包まれていた、あの懐かしい建業とは異なる地……。
新しいお茶を淹れ終えて、私はふと空を見上げました。蒼穹。切ないくらいの透明感。
いずれ曹操と正面切って衝突するときが訪れれば、おそらくここは真っ先に戦場となるでしょう。そしてここに暮らす人々は、先鋒となって強大堅固な曹操にぶつかっていくことになります。
いつか幼い頃に見たような白い雲が、ゆったりと流れ、私たちの遥か頭上を通り過ぎてくのが見えました。
避けられないのなら、せめて少しでも長くこの幸福が続きますように。
尚香さまの笑顔が陰りませんように。
どうか乱世に、今しばらくの平穏を。
イラスト:水無月ゆうき様