022. 日常風景 (1)
尚香さまのお輿入れの日取りが、とうとう正式なものとなりました。
兄君である孫権さまの執務室から戻られた尚香さまは、そのお話を直接聞かされたのでしょう、見たこともないくらい青ざめて生彩に欠けるご様子でした。
「尚香さま、お茶が入りました」
「……ありがと明」
声には張りがなく、茶器に落とした視線にも力がありません。
継ぐ言葉が見つからなくて、私は揺れる湯気を見つめたまま押し黙ってしまいました。
「大丈夫。そんな顔しないで、明。わたしは虎の娘、小覇王の妹だもの」
そう言って微笑んだ尚香さまは、孫家がこの建業を本拠としたあの頃よりもずっと美しく、そして悲しげに見えました。
――そのとき、私の心は決まったのです。
「私も、お供させてくださいませ」
「えっ!?」
驚いて顔を上げる尚香さまに、私はゆっくりと微笑み返しました。
毎日のように旗本の騎兵と並んで馬を駆り、騎射の鍛練を欠かさない尚香さま。その屈託のない笑顔とお言葉に、どれだけ私たちは胸をあたためてもらったことでしょう。
縁あって召し抱えられて以来、私は尚香さまにお仕えしてきました。親類縁者のない私にとって、尚香さまが単なる主人以上の存在であることは間違いありません。おそれ多いことに尚香さまも目をかけてくださって、いつしか私は『弓腰姫付きの侍女頭』という立場に立つようになりました。
戦の便りの絶えないこのような情勢の中、一介の侍女にできることは限られています。私が側仕えとしてお輿入れにお供することは、むしろ自然のなりゆきと言えるでしょう。
「お供って、明、あなた」
「お輿入れに側仕えの者が随伴するのは当然のことですよね? 私は身内もありませんし、僭越ながら尚香さまの侍女頭ですから」
かすかに揺れる湯気。尚香さまの好みからすれば、やや冷めてしまったかもしれません。入れ替えようとするわたしの手を、尚香さまがそっと押しとどめました。
「ねえ明。わたしね……ずっとこの呉にいられると思ってたの。大人になって誰かの妻になっても兄様の治める土地で暮らしていけるんだって、当たり前みたいに考えてた」
目を伏せて、ぽつりぽつりと喋る尚香さまから目がそらせません。どこか困ったような泣き笑いの表情。
艶やかな髪が短く切り整えられているのも、膝の上で組んだ指先が弓弦や剣の鍛練で固くなっているのも、よその公主にはまずないものでしょう。
孫家は激動の中で戦いながら強大になってきた一族だから。“曹魏”と並んで“孫呉”と称され、南方の雄と言われるようになるまでに、数々の辛酸をなめてきたから。尚香さまは、深窓の姫君ではいられなかったのです。
それだけに、なおさら政略結婚に違和感を覚えてしまわれるのだと……私はこのとき改めて思い知らされました。
「でも、乱世だもの。前線で指揮するだけが戦じゃないってことくらい、わたしにも分かってる。今の情勢だと同盟が必要なことも」
そして、嫁いでいった先では間諜扱いされるであろうことも。
尚香さまの胸の内にくすぶる声が聞こえてきたような気がしました。
気休めで、否定の言葉を口にするのは簡単ですが、それにどれほどの意味があるというのでしょうか。私はもう一度はっきり告げました。
「ご一緒させてください」
「もう……あなたってホントお人好しなんだから」
苦笑した尚香さまは、顔を上げてまっすぐに私を見上げました。そして「ありがとう」と微笑み直したのです。
たったそれだけで沈みかけた空気がふっと和み、胸に柔らかな光が灯ったような気がしました。
尚香さまは、いつもそうした陽性の雰囲気を纏っておられる方なのです。この先ずっと変わらずにいてくださるといい……不安と困惑を使命感でくるんだ笑顔など、悲しすぎて見ていられそうにないから。
劉備さまが、この御方を心から慈しんでくれますように。私は請い願わずにはいられませんでした。
東呉を統べる孫家の長姫と、荊州南部に足掛かりを得た劉備さまとの婚姻。それは中原の魏・曹操に対抗するための同盟関係を、より確かなものにしようという政略結婚でした。
申し出たのは孫権さま。
けれど、反対する意見もずいぶん根強かったように感じられます。
亡き孫策さまの義弟にして大都督であられる周喩さまは「赤壁の大戦で力を合わせた間柄とはいえ、荊州の支配権を巡っていずれ戦わねばならぬ相手だから」と仰って、また尚香さまのご母堂は、お二人の歳が父娘ほども離れていることを理由に猛反対なさったそうですが……やはり時代は乱世です。曹操に降るを潔しとしないならば劉備軍と手を組むより他はなく、そして手を組むならば婚姻ほど明快な同盟の形式はありません。
私のような、奥棟に仕える無学の侍女ですら理解できる筋書きです。“江東の虎”と畏敬された大殿さまのご息女である尚香さまが、理解できぬはずがありませんでした。
長江の水面が熱い日差しを浴びて光り輝く季節。
呉主の妹・公主として、尚香さまは荊州の劉備さまのもとへ――
*
唸りをあげて振り落とされる剣撃。
今のいままで静寂のただ中に対峙していた両者は、一転して烈しい打ち合いを繰り広げています。
二人が地を踏みしめるごとに舞い上がる砂埃。一般兵たちの姿は遠く、風に乗って彼らの掛け声が聞こえてくるのみ。
尚香さまと刄を合わせているのは趙雲将軍。劉備さまが三人目の弟のように頼みにしておられる武将で、お人柄は温厚篤実、忠義に厚く、その強さは劉備軍の要とも敵兵を貫く大槍とも言われている御仁です。
何度見ても驚きを隠せません。剣を振り切るときの鋭さといい、無駄のない身体さばきといい、勇猛果敢な孫呉の将兵たちと比べても全く遜色がないのですから。いえ、呉に一体何人これほどの熟練の勇将がいることでしょう。
そのような筋金入りの武官の方が、鍛練とはいえ主の正室に剣を向けているのですから、私にとっては二重に驚きなのです。
いくら実戦では遊撃部隊を率いていた弓腰姫とはいえ、ただの鍛練に白刄を用いるなんて、しかも相手は音に聞こえた趙雲将軍だなんて……と、もはや毎度のこととなりつつある今でも私は気が気でなりません。
けれど尚香さまはそんな私の心配をよそに、熱心に打ち込んでは思い切りよく動き、豪傑の武将を相手に実に生き生きと立ち回っています。
趙雲将軍の剣を受け流して反撃に転じたときなど、手合せを見守っている人々の間から思わず感嘆の息が漏れたほどでした。
「さすがは孫夫人、素晴らしい敏捷さですね」
「あら、ありがとう。いくら将軍でも手加減してると痛い目みるかもしれないわよ?」
「心してかかりましょう」
噛み合った剣越しにそんな言葉を交わして、二人は互いに大きく飛び退きました。と、そのとき。
「尚香、子龍。そのくらいにして少し休んだらどうだ?」
横合いからかけられた穏やかな声。執務に一区切りついたのでしょう、劉備さまの姿がありました。
執務中であっても、ゆったりした袍に身を包んでいても、長いこと苦楽を共にしてきた愛用の剣を必ず帯びている劉備さま。気さくに皆に笑いかけるそのご様子は、まさに寛大な殿様そのもののように見えました。この公安の地を統べる者、といった貫禄があるのです。
赤壁戦後のどさくさに紛れ、公安を拠点として荊州南部を押さえ込んだ抜け目のない男。曹操に対する先鋒としての、さしあたっての同盟者。
当初は先入観があった私の目から見ても、劉備さまは人望が集まらぬはずのない立派な御方でした。誠意のかたまりのような物腰でありながら押し出しもよく、自然と人を惹きつけるのです。