ファンタジースキーさんに100のお題

025. 散歩 (1)


 生まれたときから傍にいる、四つ違いの従妹(いとこ)
 あの子をルゥと愛称で呼び始めたのはいつの頃だっただろうか。物心がついた時分にはすでに家族だった。
 広大な城内に点在する離宮で系譜ごとに暮らしている血族の中、本宮住まいなのはローランス直系の者だけ。ルゥの両親、兄。オレの両親と、姉たちと。なんの気兼ねもなしに行き来して、屈託なく笑い、助けあっていた。
 伯父と父とを中心にした、ひとつの大きな家族だったのだ。

 だからオレにとってのルゥは妹で、たった一人の年少者。大戦でルゥの両親や兄が亡くなった後は、その思いがさらに強くなった。
 いずれ戴冠し、四軍百官万民を統べる唯一の王となることを定められた幼い従妹。ルゥを守り、支えたい。そんな想いが胸の奥深くに根づいたのも、ごく自然な流れだったと自分で思う。


 *


 本宮の奥、直系王族のための棟が立ち並ぶ内殿の中でも最も奥に、ルゥの私生活の場はある。
 慣例的に代々の王太子が使っている、陽当たりと風通しが特にいい区域だ。東雲(しののめ)ノ宮という。王族としての公務が入っているとき以外は、この宮居に来ればたいていルゥに会える。事前の約束も取り次ぎもなく彼女に会うことができるのは、近衛兵団長たる地位のおかげというよりは身内の特権だろう。
 王都・連翔(れんしょう)の街並みを遥かに見下ろせる通路を歩きながら、一月後に迫った従妹の誕生日のことがふと胸中をよぎる。

 窓から射し込んでくる光はあたたかく、寝不足の目にひどく眩しかった。
 渡し通路をいくつか越えて、奥に進むごとに近衛兵の数が増えていく。三連続の夜勤明けのはずのオレの姿を見ると、各所に控えた警護の兵たちはさすがに驚いたような様子だった。慌てて敬礼をよこしてくる彼らに軽く声をかけ、オレは直接ルゥの私室に訪いを入れる。

「ジルお兄様。今日は非番なの?」

 分厚い書籍をそっと閉じて、ルゥが立ち上がった。
 こちらを見るなりルゥの顔に浮かんだ笑みときたら──親馬鹿ならぬ兄馬鹿だと後ろ指をさされるかもしれないが──本当に花のようだった。豊かな光と水のもとで育まれた可憐な梨花だ。
 こういう表情をすると、先の大戦で夭逝(ようせい)した彼女の母親の面影が重なる。物柔らかく控えめで、甘やかな人だった。

 無邪気に微笑む従妹の頭に触れると、髪と同じ金色の睫毛に縁取られた双眸がいっそう和んだ。喉を鳴らす子猫みたいな仕草だ。
 家庭教師や侍従官、護衛兵に小者。ルゥの周囲に侍る者は数多いけれど、この開け放しの甘えた表情を見せてもらえるのはたぶんオレだけだろう。それこそ特権だ、などと内心うぬぼれていたりもする。

 ルゥの手元で閉じられた本の表紙は深みのある蘇芳色で、装飾が施された重たげなものだった。国史か地理か、国際政治学か――読み返して頭の中を整理していたに違いない。
 一瞬、まだ学事の時間中だったのかと思ったが、家庭教師の姿がないところを見ると、いつもどおり自主的に勉強していたのだろう。

「今日は夜勤明けで休みなんだ。ルゥはまだ勉強か」
「さっき国史の講義が終わったところ」

 ルゥは王統を継ぐ者。現王の取り計らいによって最高の教育を受けているが、それに甘んじたりはしなかった。
 与えられるに先んじて、常に自ら学ぼうと努め、熱心に励む。教授された事柄は着実に自分の中に取り込み、関連資料を読んでじっくりと消化させ、折にふれては現役の執政官たちに混じって議論する。それに加えて、何かと厄介な制約がつきまとう視察研修だって厭わない、ときているのだ。
 さらに近頃では国内貴族の社交場や夜会にも頻繁に招かれるようになって、ますます忙しさが増しているようだった。

 正式発表は十五歳の誕生日を迎えてからのこととはいえ、このぶんなら次期国王としてまず申し分ない、いずれ月日が満ちれば聡明な女王となるだろう──というのがルゥに対する宮廷全体の風評である。
 まったくそのとおりだとオレも思う。学問や武術はもちろんのこと、礼儀作法や法願術の修練に至るまで余念がなく、怠けるどころか放っておくと根を詰めがちな性分で、少しばかり勤勉すぎるのではと周囲が心配するほど謹厳実直なのだから。

 よその国ではその昔、長年の悪政に耐えかねた国民がついに蜂起して、堕落しきった王と官人とを駆逐してしまったという史実があるそうだが、きっとルゥの治世ではそんな事態には陥るまい。と、安らかな方向に考えてしまうのは身内のひいき目だろうか。

「国史ってことは、ストラス先生だよな。あの御仁は興が乗ると休憩なんて頭から吹っ飛ぶだろ。今日はずっとこもりきりなんじゃないのか?」
「大当たり。朝のお稽古で御苑に出たっきりで」

 一瞬お互いを見つめて、どちらからともなく頷く。
 オレは部屋の外に控えている侍従官に声をかけ、少しばかり二人で散歩に出ると告げた。周囲のほうも慣れたもので、供の者をつけろだのと小うるさいことは言ってこない。国外に出ようというわけでなし、もはや護衛を伴わなければ出歩けないほど物騒な時勢ではないのである。
 凄惨な大戦から八年。天人国だけでなく、世界中が戦後の緊迫感から早くも遠ざかりつつあるのだった。

 それに何より、オレの今の地位は近衛兵団長。宮廷の安全管理を任とする近衛兵団は四軍の筆頭であり、団長はその主席である。王宮育ちではあるものの、その種の専門訓練を受けている現役武官なのだから。
 ルゥの息抜きを大切に考えてくれる侍従官らに快く見送られて、オレとルゥは城を後にした。


 *


 ひとしきり風の行方を追って空駆けを楽しんだ後、降り立ったのは王都を遙かに見下ろせる丘の上だった。

「いい風だね。陽射しもあったかいし、身体がほぐれる気がする」
「そうだなぁ」

 円形に広がった端然たる街並みの中央には、さっき出てきたばかりの白亜の王城が見える。ひとっ飛びしただけなのに、ここはもう壮麗な宮中や賑々しい城下町からも遠い。ただ穏やかに風が渡り、緑の下草を揺らしていく。
 東屋(あずまや)ひとつない、手つかずの丘に二人きりで、ルゥは青空に向かって伸びと深呼吸をした。そのまま手足の力を抜くと、オレが草地の上に広げた敷物に腰を下ろす。
 並んで座った二人の間に横たわる、ゆったりと心地よい沈黙。まろやかな形をした群雲が、まるで居眠りをする羊のようだった。

 ルゥの長い髪が風に流れ、光を含んだ金色が躍る。瑞々しい草の青い香り。野花のざわめき。どれもがほんの少し手を伸ばせば触れられるほど近い。
 遮るもののない空の下、こうして静謐な空間に身を置いて、ルゥは束の間くつろぐことができるようだった。

 だいたい常日頃から根を詰めていて、しかもその自覚がないような生真面目さなのだ。幼いうちに両親と兄を亡くして重責を背負ったせいか、己を律する気風がどうにも際立っている。そこが気がかりだった。
 いくらルゥが君臨する者であるといっても、たった一人きりで国を切り回すわけではないし、中継ぎの現王であるオレの父や母が、即位後の彼女を公私にわたって手厚く支える段取りになっているのだ。

 「もっと肩の力を抜いてくれていいのに……」などと寂しそうにこぼす母の姿も目にしたことがある。女同士のほうが気が回るのか、数年前に降嫁していった姉たちも、本宮住まいだった頃は無意識に頑張りすぎるルゥのことを何かと気遣っていたらしかった。

 とはいえ、王太子となるルゥが公人として秀でていればいるほど民や執政官が安心するし、あまりにも度が過ぎる没頭というわけではないから侍従官らも表立っては(いさ)めない。そこで従兄であるオレにできることといったら、しばしばルゥの居室を訪れては茶休憩を共にしたり、時折こんなふうにお忍びで外へ連れ出したりと、その程度だったが、当のルゥはいつも無心に喜んでくれる。繰り返すうちに習慣となって、現在に至っているのだった。

 それに……実を言うと、外出はオレ自身の憩いの一時でもあった。
 衆目のない場所なら、一緒になって遊んでいた昔のような振る舞いも許されるから。
 ルゥの頭を撫で、戯れに頬をつまむ。あるいはルゥがオレにじゃれつき、翼に触れる。そうした兄妹のやりとりは、たとえ庭番の小者であっても、もはや余人の目があるところでは自ずと(はばか)られるのである。

 空を越えてきた清澄な風が、音を立てて吹き抜ける。
 気働きのある侍従官が持たせてくれた肩掛けをルゥに羽織らせて、オレはふと気づいた。ルゥの双眸は眼下に広がる城下町に向けられている。近い将来、彼女が守っていくことになる栄光の都。そこに暮らす万民……。
 ルゥは今、何を思って眼差しを注いでいるのだろうか。