025. 散歩 (2)
その横顔を見つめるオレの胸中に炙り出されたのは、かつて立てた誓いのことだった。
宮廷の警備・警護を一手に取り仕切る近衛兵団長の役職を拝命したとき、密やかに灯した己への誓約。
飾り物の王族団長には決してなるまい、と。
終戦間際、囚われていた海人国から救い出したときのルゥの姿が、目の奥に焼きついて離れなかった。
もう二度とあんな目に遭わせはしない。あの小さかった従妹を、彼女が育んでいく未来を、己の手で守りたい。いなくなってしまった人たちのぶんまで。
それは紛れもなくオレの根幹を成している、志、だった。
八年前。世界中を疲弊させた大戦の終盤に、ルゥは敵の手中に捕らわれた。
混乱する戦局のただなかにあって、海人の本国に連れ去られたらしいと分かるなり、オレは武器をひっ掴んで翼を打ち広げた。ルゥを取り戻す。その一念だけが全身に熱力を与え、未だ伸びきっていなかった己の手足のことも、敵の本拠地に単身潜入する危険性も、何もかもが脳裏から抜け落ちた。
いま思い返すと半狂乱としか言いようがない。けど、即刻行動を起こしたからこそ間に合った。それもまた事実だ。もしもあのとき近衛兵の到着を待っていたら──考えただけで背筋が寒くなる。
囚われの従妹を敵地で見出した、あの瞬間ほど、血の凍る思いをしたたかに味わわされたことはない。身体中の臓腑を万力で握り潰されたような心地だった。なぜなら争乱の果てに再び腕に抱いたルゥは、ぐったりと四肢を投げ出したまま身動きもできない状態だったのだから。
震えのとまらない指先。ふっくらと白桃のようだった頬が青白く冷え、金色の髪は乱れて血に濡れていた。一体どれほどの酷い扱いを受けたのだろうか。ろくに口もきけない有様のルゥに応急処置を施し、追いかけてきた近衛兵の小隊と合流すると、脇目もふらず母国に連れ帰ったのである。
王侯女性、しかも七歳の誕生日を迎えてもいない子どもに対して、正視に耐えない信じがたい仕打ちだった。
それからルゥは高熱にうなされ、宮廷医師団の手厚い看護にもかかわらず、意識の戻らない日が何昼夜も続いた。
寝台の傍らで小さな手を握りしめて、オレはただひたすらに祈った。奇跡をもたらす天女とも、法願使いの始祖とも言い伝えられる“雲上世界の女神”を胸中に思い描き、自分の無力を痛いほど噛みしめながら、一心に祈ることしかできなかったのだ。
幾年月とも思えるような苦悶の日々の末、不意にルゥの青空色の瞳が何度もまたたいて、やがてオレの顔の上でしっかりと焦点を結んだときは、とうとう溢れ出した涙をこらえ切れなかった。
あっという間に顔中が熱い雫にまみれてぐしゃぐしゃになる。涙腺が壊れたみたいで自分でも戸惑ったけれど、どうしようもなかった。
そっと頬を拭ってくれる柔らかな指の感触。安堵したように微笑む幼い従妹。その笑顔が愛おしくて、何よりも尊くて……思わずルゥを抱き寄せた。
このぬくもりが失われるなど、決してあってはならないことだった。
ルゥ。大切なのは、守りたいのは、この小さな従妹だ。
そのとき、自分の中で、何かがはっきりと形を成していくのが感じられた。
暗雲を払って広がりゆく暁にも似た、まばゆい光。おぼろげだった目の前が突如として開け、胸の一番底へ、熱くて確かな想いがゆっくりと染み通っていく。
霧の中を迷い迷い飛んだ末に、ようやっと懐かしい風景を鮮明に見渡せたような思いだった。
*
内殿の中、東雲ノ宮にほど近い露台に舞い降りて、後から降り立つルゥのために手を貸した時分には、すでに王宮は薄紅色の紗に優しく覆われていた。
二人して物思いにふけってしまったおかげで、今日はいつになく帰りが遅くなったようだ。室内へと戻るルゥの白翼もまた、淡く黄昏に色づいている。
「お兄様」
先に歩き出すはずのルゥが、立ち止まってこちらを見上げた。
風渡る丘の上で王都を見つめていた、彼女の静かな眼差しが脳裏によみがえる。
平生よりも張り詰められた声。涼やかな目元に浮んでいるのは、不安──迷い──心細さ。
何か言いたそうに唇がかすかに動いたものの、どうしても言葉が出てこないようだった。戸惑ったような表情からして、はっきりと言い表せる類のものではないのだろう。
オレは言葉を促さなかった。彼女が言いよどんでいる内容を探り当てようともせず、黙したまま、ただ佇む。
何も言えない。言えなかったのだ。
どれほど親身になって尽くしても、ルゥの抱えた重責を等しく分かち合うことはできない。
それはおそらく夫君となる男にのみ果たせる役目であって、従兄の役目ではないから。たとえ身を削るほどに望んだとしても、臣籍にある近衛兵団長の出る幕ではないのだと、改めて思い知らされるのはこういう瞬間だった。
ルゥをもっと、楽にしてあげたいのに。ひどく思い詰めた姿を目の当たりにしながら、他ならぬ自分がなんの助けにもなってやれないのはたまらない。
ルゥにはいつまでも健やかに笑っていてほしい。陰りなく、のびのびと、木漏れ日の下で頭を寄せ合って眠りに落ちた、あの平和な懐かしい日々のように。
「ルゥ」
軋む心を持て余し、かける言葉を探しあぐねた末。
オレはそっと手をさしのべた。
武芸の鍛錬ですっかり硬くなった利き手と、頭ひとつぶんは高い位置にあるオレの顔とを、ルゥがじっと見つめてくる。青空の色、鮮やかな雲上世界の色、至高の天藍色に彩られた瞳。
やがて、ためらいがちに指先が重ねられた。握りしめたその手は、遠い日の記憶よりもしっとりと滑らかで、はっとするほど華奢だった。
触れ合った肌があたたかい。言葉にならない想いの数々は、互いの掌からゆるゆると溶けて伝わっていくような気さえする。
「お兄様……ありがとう……」
くしゃりと歪んだ面差しを隠すように、ルゥがうつむいた。
胸に押し当てられる従妹の額。風に乱されたままの金髪と、その背に伸びた雪白の翼が、かけがえのないもの全てを象徴しているかのようだった。
ずっと傍にいる。
それがオレの、ルゥのためにできること。
イラスト:KT様