026. 堕ちた聖域 (1)
ぬめりを帯びた風が丘を渡り、二人の頬をかすめていく。
「これは……」
乾いてかすれた声。喘ぐように呟いたきり、清白は絶句した。
傍らでは葛葉もまた同様に、言葉を失って立ち尽くしている。今しがたまで機敏に動いていた彼女の脚は唐突に歩みを中断し、地に縫いとめられたように動かない。
跳ねる鼓動。小高い丘を登りきったところで突如として視界に飛び込んできた景色に、一瞬にして意識を奪われてしまったのだった。
不自然に枯れ果てた下草が、足元で弱々しく揺れている。野の花も、小路に沿って整然と立ち並んでいたのであろう樹木もが、季節に似合わぬ干からびた姿を晒し、色あせて倒れかけているものすらあった。
虫の声も、鳥の歌も聞こえない。
妙にどんよりと濁った空気が、身体中にのしかかってくるかのように重い。萎える四肢と、痺れゆく意識。
ただ春の陽射しだけがうららかで、まばゆい。地上で起こったできごとなど知らぬげに。いっそ残酷なほどに。
この不吉な気配の源に、二人には覚えがあった。
「あの怨霊が、ここを通ったのか」
清白は言葉にせずにはいられなかった。異変は小路の周辺だけに留まらず、おそらくはその先にある殿舎にまで届いているようだったからだ。
あの滅びの化身がよみがえってから、八日目の午後。
“毒を噴き出す災厄”とも、“命あるものに仇なす怨霊”とも言い伝えられる『それ』は、針路を変えることなく進んでいるようだった。気脈を乱し、毒気を振りまき、数多の生命を食い散らしながら、北東の方角へと。
人と妖との抗争によって抑えを失くし、再び世に解き放たれた忌むべき怨霊。眠っていた分を取り戻そうというのか、貪欲に命を吸収し続けている。人も、家畜も、植物も、なんの備えもなく奴に襲われてはひとたまりもなかっただろう。人間である清白と人妖である葛葉、二人の縁者が皆まとめて一網打尽にされたように。
「刑部姫の宮居とやらは、あの……殿舎なのか?」
「そのはず……じゃが……」
眼前に広がる光景に目を奪われたまま、葛葉は呆然とうなずいた。
貴人の安否を確認するために駆け出すべきところなのだろうが、怪異が通りすぎた痕跡のただなかに二人突っ立って、どちらの足も動かない。生々しい記憶がどくどくと脈打ち、まぶたのすぐ裏で蠢き始める。
怨霊。むせ返る瘴気。奪われた多くの生命。目の当たりにした惨劇は、つい先日のことなのだ。
「行こう。かの御方のご在所を確認せねば」
しかし、さすがに人妖の姫御前は気丈だった。ぶるりと頭を振って我に返ると、連れの青年を促した。
先に立って歩き出した旅装の背に、編み笠からつややかな銀髪が流れる。琥珀の瞳に、焦燥と恐怖。
なまぬるく湿った風が、ひどく不快だった。
長い年月をかけて葛葉の一族が鎮めていた怨霊は、忌まわしい力を振るいながら確実に力をつけている。
あれが解き放たれた直後に現場を訪れた葛葉は、残留瘴気に当てられて数日のあいだ床を離れることができなかったが、人妖は人間と比べて気脈の影響を受けやすいから無理もないだろう。現に、葛葉より先に解呪の中心地へ踏み込んだ清白のほうは、吐き気を催した程度で済んだのである。
しかし、この一帯の惨状はどうだ。仮に今しがた怨霊が去ったばかりだとしても、場に残された毒気の濃度は、過日よりもさらに強い。
懸命に後を追ってくる二人を嘲笑うかのような、濃密な穢れの残り香だった。
「葛葉。あんたはここまでにしたほうがいい。向こうで待っていろ、俺が見てくる」
殿舎の屋根を仰ぎ見るほどの距離まで来て、清白は葛葉を引き留めた。
葛葉の腕。とっさに掴んで、あわ立っているのが分かった。身体に障りが起きかけているのだろう。動けなくなってからでは遅いのだ。
「何を言う。そうはゆくまい。妾も参る」
「またそんな無茶を」
「無茶ではないぞ」
葛葉は着物の袂からなにやら取り出すと、こちらの目の前に広げて見せた。
絹に似た光沢がある。銀色。肌着とさして変わらぬ薄さの布地だ。それが張りつくようにして葛葉の鼻から下を隠し、覆面となって収まった。
「特殊な製法で作られた面覆いじゃ。穢れを防ぐと言われておる」
「そんなものを持ってたのか」
「妾の城ではな、一族の者は、みな常にこうしたものをお守り代わりに懐へ入れておったのじゃよ。ただの慣習かと思うておったが……役に立つのう」
「神通力が込められた面隠し、か」
「案外、万一のときに備えてそんな慣わしができたのかもしれぬな」
「ああ。なんせ、怨霊を封じていた城だからな」
効果のほどは定かでないが、まったくの無防備よりはましだろう。体調を最優先することを葛葉に約束させてから、清白は殿舎の門をくぐった。
丹塗りの門構え。荘厳な彫刻が施された大柱。四方位を守護する神獣の御影像。一定間隔で配された行灯。物珍しい調度品の数々が、常温の静寂に支配されてそこにある。
清白の目には、造詣美を追求した単なる建造物に見えるのだが、葛葉の説明によると、どれもが浄域のしるしであり、万物を巡る力の調和を図る術式的なものであるらしかった。
「さすがは賢者と名高い御方の宮居じゃ」
葛葉の呟きは、彼女自身の表情をさらに沈ませた。
数百年の永きにわたって災厄を眠らせてきた封呪の、要である封印碑を作り出したという天狐の大老──刑部姫ならば、必ずや力添えしてくれるに違いない。そう踏んで、亡き父から聞いた記憶を頼りに、葛葉はここまでやって来たのだ。
猛毒の怨霊を封じるために知恵を授けてくれるであろう貴重な人物を、その怨霊によって奪われてしまったかもしれないなどとは、考えもよらなかった。
「しかし妙じゃな」
「何が?」
「怨霊が通ったわりにはこの宮だけ気脈の乱れが少ない。先ほどの丘のあたりのほうが、よほど穢れが強かったぞ」
「言われてみれば、空気のよどんだ感じがそれほどひどくないな」
「これならば面覆いの必要がないくらいじゃ」
だが、老賢者の住まう清浄なる宮だからという理由で、滅びの怨霊がここを避けて通ったとも考えにくい。
「……考えていても答えは出ない、か。ともかく刑部姫と生存者を探そう。貴人の御座所といえば最上階だな?」
「おそらくは」
殿舎の内部は静まり返り、物音ひとつしない。しかし遺骸もまったく見当たらない。
この殿舎にいたはずの人妖たちはどうしたのだろうか。逃げおおせたか、殿舎の中の別棟にいるのか。
葛葉は最近まで一族の領地から外に出たためしがなく、刑部姫の宮居の内情などはまったく分からないと言う。そもそも刑部姫という御仁とも、時折うわさ話には伝え聞くものの、これまで直接の面識はなかったというのだから仕方がない。
清白は左腰に下げた愛刀の柄に手を置いたまま、上階へ奥棟へと進んでいった。
廊下や階段はどこも端然と掃き清められて、日頃からよく手入れが行き届いていたのだと見て取れる。おぞましく濁った怨霊の名残さえなければ、今にも障子の陰から侍女衆がすべり出てきてもおかしくないほどの清潔さだ。
「妾は白蔵大主が娘、葛葉。ゆえあってこちらの主殿を訪ねて参った。どなたか居られぬか」
葛葉の声が細く伸び、よどんだ沈黙の中に吸い込まれていく。歩を進めながら呼びかけを繰り返すうち、二人はやがて最上階にたどり着いた。