ファンタジースキーさんに100のお題

029. 外つ国の遺産 (1)


 昔、むかし。
 地上に住まう人々が、種族ごとに分かれて五つの集落を作り、それぞれ小さくまとまって暮らし始めた頃。
 その空の上、天の世界では、雲上人たちのきらびやかな文化が花開いていました。
 雲上人は、背中に一対の翼を持つ民で、誰もが生まれつき霊妙な力を備えていました。
 天上は平和でした。下界と違って侵略もなく、飢えもなく、光に満ちた時代が長いこと続いていたのです。

 ところがある時、常春だった雲上世界に、大きな異変が突如として襲いかかりました。
 それは災い。巨大な威力を持った、狂乱の嵐でした。
 なんの前触れもなく生じた【災厄】によって、天界は崩落の危機を迎えたのです。
 雲上人たちはかつてない恐慌に陥りました。
 護りの結界がほころびた。このままでは保たない。雲上世界は滅びる。何も知らずに日々を営む下界の人間を巻き添えにして。
 気づいたときにはもう、【災厄】は絶望的なほど間近に迫っていました。いかに雲上人が霊妙な方術を操るとはいえ、それはあまりにも突然で、強大すぎたのです。

 しかし、その中でたった一人、決然と起った人物がいました。
 その者の名は、メファシエル=ティルム。
 雲上人の中でも、特に力が強いいくつかの血族の、盟主の地位にあった女性でした。まばゆいばかりの白翼を持った乙女が、危機に瀕した雲上世界のために、眷属を率いて飛び立ったのです。
 双子の妹たちや朋友らと共に、彼女は果敢に【災厄】を退けようと戦いました。
 考え得る限りの方策をぶつけ、徹底的に抗いました。

 けれど、相手は狂える嵐。どのようにして発生したのかもよく分からないような存在を“無に還す”ことは、雲上人が束になっても、至難の業に他ならなかったのです。
 苦しい総力戦の果てに、とうとう盟主は最後の手段に打って出ました。
 離れわざでした。一か八か、その身を呈して【災厄】の軌道をそらせ、さらに轟々と逆巻く瘴気を切り裂いて……【災厄】を、まるごと氷漬けにしたのです。
 眷属たちはすぐさま天界のかけらを切り離し、封じられた【災厄】を厳重にくるんで永久氷結と成しました。
 妹たちの支援と眷属らの手助け、そして大いなる僥倖に恵まれて初めて遂げることのできた偉業です。
 雲上世界は救われて、事なきを得ました。

 顔面蒼白のまま叫び声を上げたのは、盟主の眷属である人々でした。「三姉妹が結界の外に落ちた──!」
 渾身の力をこめた大術の反動か、はたまた何か奇妙な流れに押されたのか。最も【災厄】に近い位置にいた盟主と、双子の妹たちが、結界のほころびをすり抜けてしまったのです。
 結界は天界を包む守護壁。ざっくりと穴が開いていては、今後もし第二の【災厄】が生じたときに危険極まりありません。
 だから、盟主は迷いませんでした。
 外側から破かれた結界は、外側からしか繕えない。けれど元どおりに穴をふさいでしまったら、雲上世界に再び戻ることはもはや決して叶わない。
 故郷との別れを悟っても、彼女たちは、ためらいませんでした。

 こうして、結界の破れ目を繕った三姉妹は、やむなく下界へと舞い降りることになったのです。
 地上の世界には、五つの異なる種族が暮らしていました。獣のような身体的特徴を備えたものや、魚よりも自在に海を渡るもの。様々です。
 落ち着く場所を求めてさすらううちに、三姉妹は雲上人とよく似た外見を持つ人々に出会いました。
 五種族のうちのひとつ、背中に一対の翼を持った、空駆ける民です。

 天人と呼ばれるその種族は、三姉妹に友好的でした。『天から降りた乙女』と敬って、歓迎し、自分たちの集落で共に暮らしていけるよう庇護を与えたのです。
 メファシエルの決断と敢闘を知った天人たちは、口々に彼女たちを讃えました。とりわけ、もう二度と帰れないと承知で結界を繕った、勇気ある振る舞いに対して。
 結界内から閉め出されて下界に堕ちたのではない。あなたがたは別世界への扉を開いたのだ、と。
 その言葉は、故郷を離れた三姉妹を優しく慰め、両者の間にあった一線を次第に取り払っていきました。
 天人たちの集落は、三姉妹の永住の地となったのです。
 やがて彼女たちは雲上世界の血を遺し、過ぎゆく幸せな月日の中で、静かに天寿をまっとうしました。

 昔、むかし。
 まだ国のかたちも整っていなかった、遙か遠い、いにしえのお話。


 *


 兆しが、表れた。
 まだ三歳にもならない愛娘が、手を触れただけで他人の傷を癒したのである。
 天人国の王城本宮、内殿の奥に整えられた花見頃の庭園で、王妃は畏怖を抱えて立ち尽くした。
 母親である自分と同じ力。異質なる力の顕現。まだ言葉を紡ぐことすら拙い幼子だというのに。
 あまりに早く兆候を示し始めた娘の姿を、このとき王妃は思いがけず目の当たりにしたのだった。

 庭園で散策していたのは三人きり。王妃と娘と、転んで腕をすりむいた男の子。娘にとっては従兄にあたるその子は、血のにじむ傷口が瞬時にふさがったことに驚き、上気した顔を王妃に向けた。

「伯母上さま、ルゥが! ルゥがさわったら治ったんです。血が出てたのに!」
「ええ、そうね」

 王妃は短く答えるのがやっとだった。
 うっすらと緑がかった優しい色合いの白翼を背に広げ、ジブリールという名の男の子は懸命に状況を伝えようとしてくる。その傍らでは、従兄の興奮がうつったのか、はしゃいだ声を上げて娘が従兄にじゃれついていた。

「ルシファー」

 名を呼べば、澄み切ったあどけない碧眼が見上げてくる。無心の笑み。珠のように無垢で曇りのない、小さな娘。
 この子はまだ何も知らない。
 そう考えた途端、慈しみの情が噴き上がるようにわいてきて、一気に溢れた。

 王妃の一族が太古より血で継承してきた力である。能力者である自分の実子、しかも女子。
 覚悟はしていた。だがやはり怖ろしかった。まして、いくらなんでもこんなに早くこの日が訪れるとは予測していなかった。

「……さあ、今日はもう宮へ戻りましょうね。ジブリール、あとで腕をよく見せてちょうだい」

 内心の動揺を押し隠し、娘を抱き上げてジブリールに目配せする。
 母の腕の中で、娘はさも心地良さそうに目を細め、小さな雪白の翼をゆるりとくつろげた。


 天人とは、すなわち背に一対の翼を持つ者。
 風に乗り、気流を読み、己の身体ひとつで空を駆ける天人は、地上世界に住まう五種族のうち、最も高く速く飛ぶことのできる有翼の民である。“空を往く者”という通称のとおりの人種だった。
 国民性は至って穏和。王と王妃を頂点とした貴顕社会で成り立っており、有事の際には驚異的な団結力を発揮する。全体の調和と秩序を重視し、風雅を尊ぶその傍らで、集団を率いる強健な指導者を希求する傾向もある。

 現在の天人王はセラフィム=ディーク=レグナ=ローランス。三十路に入ったばかりという年若い君主であるが、四軍百官を整然とまとめ上げる手腕を持ち、王弟ミカエルの補佐を受けながら善く国政を切り盛りしている、と、万民からの評判はおおよそ上々だった。
 そのセラフィム王の治世下。アンジェラ王妃はひとつの危惧を抱き続けていた。
 内政向きの難しい懸案でも、なかなか折り合いのつかない外交問題でもない。
 王妃の憂いはただひとつ。己の持つ奇異なる『力』が、王家本流の血脈に陰りをもたらすのではないか、と。

 地中に伸びた大樹の根のように、その心痛は王妃の胸中に深くふかく巣食っていた。華燭の典を執り行ったときから──否、当時まだ王太子だったセラフィムに求婚された少女の日から、ずっとだ。


「そうか、ルシファーに兆しが……」

 そして月日を経て、いま王妃の前で言葉を詰まらせた青年も、その憂慮を共有する者のうちの一人だった。
 明るい金茶色の髪は襟元でさらりと束ねられ、その背中、うっすらと黄みを帯びた双翼の根本へと流れている。男性にしては優しげな顔立ちの部類だろう。身にまとった物柔らかな雰囲気を、涼しげな目元が凛と引き締めている。
 王妃に似通った容貌だった。その青空色の瞳の、右片方が眼帯に覆われていることを除けば。

 青年の名はハールートという。王妃の生家──ティルム氏族の長であり、王妃の実の兄である。
 兄妹の髪が風にそよぐ。湯気が流れた。王妃の住まう月鏡ノ宮。露台に据えつけられた小ぶりの卓の上で、手をつけられないままのお茶の水面に、ひどく悲しげな面影が映っていた。

「確かなことよ。転んですりむいた子の傷をね、癒したのです。なにげなく触れただけで」

 静かに告げて、王妃は兄の顔を見つめた。眉間に寄ったしわと、硬く引き結ばれた口元。暗雲に閉ざされた表情を互いに目視しあって、兄妹は同時にそっと息を吐いた。痛みに耐えるように、わずかに目を細めて。