ファンタジースキーさんに100のお題

033. 獣人 (1)


 獣の唸り声のようだ、と思った。
 頭上を覆う木々の葉が時折音を立てて揺れる。闇の中、かすかに煽られる正体なき不安感。

 ずいぶんと風が騒がしい夜だ。
 桜の季節とはいえ冷え込む夜更け、寝袋で丸くなって風の唸りを聞いていると、脳裏に浮かんでくるのはなぜか決まって乳母の面影だった。
 幼い頃に聞かされた御伽噺が、優しい乳母の声で繰り返し蘇る。教訓と皮肉とが織り込まれた寓話や、他愛のない空想の物語。
 歌を聞くと一緒に歌いだしてしまう幼子だったせいか子守歌を歌ってもらった記憶はあまりないが、語り聞かせはずいぶん歳を重ねるまでしてもらっていた。掛け布団をやさしく叩いて寝かしつけてくれた乳母の白い手が、薄闇の中にまざまざと思い出される。

 葛葉はそっと目を開けた。
 掛け布団はおろか屋根もない露天で寝起きなど体験したことがなかったが、旅を始めてからの数日で早くも慣れてきたようだ。枕代わりにしていた厚布をわきによけ、静かに身を起こす。寝袋から抜け出る動きも我ながら素早い。──風に紛れて敵意が忍び寄ってきたとあっては、なおさら。

(何やら最近奇襲されてばかりじゃのう)

 隣で不寝番をしていた清白はすでに臨戦態勢に入っているらしく、身構えこそしないものの横顔が張り詰めていた。
 おしかけ同行者である雲取はといえば、ものの見事に熟睡中だ。襲撃に気付くそぶりもない。まったく呆れてしまう。いくら負かされても微塵も堪えやしない、無神経なまでの打たれ強さと正比例するニブさだった。
 吹きつけられる敵意。次第に強くなる。近づいてきているのだ。
 先程聞いた唸り声は風の音ではなかったのかもしれない。
 葛葉は身を起こした姿勢のまま感覚を研ぎ澄ませた。手を伸ばすようにして意識を拡張する。『浄天眼』という能力だ。

(──獣?)

 いや、やはり人間か。
 葛葉の『眼』が捉えたのは、こちらに向かってくる異様な生きものの姿だった。
 人妖やモノノケの類とはまた違う。ぼろ布のような衣服を纏って二足歩行する様は人間のようだが、放つ気配は獰猛で禍々しく、理性というものが感じられない。長く伸びた爪牙、凶暴性だけを宿して濁った双眸。
 ヒトとも獣ともつかない『それ』は、吸い寄せられるようにまっすぐ葛葉らのもとへとたどり着いた。

「……なんだこいつは」

 絶句する清白に返す正確な答えを、葛葉は持ち合わせていない。

「さあてのう。一応ヒトの形をしておるゆえモノノケではないし、人妖でもなさそうじゃ。さりとて人間と言うには障りがあろうな」

 話し声に反応してか、『それ』は距離を保ったまま威嚇の唸り声を上げる。
 ここにきて雲取もさすがに跳ね起きた。すぐに状況を掴んで身構える。
 鴉天狗が戦力になるのか甚だ疑問だったので、葛葉は小さく話しかけた。

「得体が知れぬ輩じゃ。おぬしは無理せずとも良いのじゃぞ」
「なに言ってやがる。ありゃ獣人ってやつじゃねーのか? 穢れた力を取り込んだ人間の、なれの果てだろ」
「なんじゃと?」
「来るぞ!」

 清白が鞘走りの音も鋭く警告する。彼に倣って葛葉は閉じたままの鉄扇を構えた。『獣人』とはなんなのか、疑問はひとまず棚上げしておく。
 相手は一人。雲取の言うように人間から逸脱した存在だとしても、斬られれば血を流す生身には違いないだろう。

 焚き火の中で薪が爆ぜる。
 眼光炯々として、低く不穏な唸り声が地を這う。
 咆哮。
 獣人は一直線に飛びかかってくる。猿のような動きだ。鋭い爪が焚き火の明かりを弾いて光った。

「がぁッ!」

 三人は攻撃を左右に避けてかわしたが、獣人の戦意は薄れそうもない。むしろ一層激しい唸り声が叩きつけられた。
 そもそも三対一の不利を顧みず仕掛けてきたのだ。ひょっとしたら何か理由があるのかもしれない。

「やめろ、なぜ俺たちを狙う!?」

 荒れ狂う敵意にも怯まず、清白が声を張り上げて獣人を牽制する。抜刀してはいるものの、是が非でも返り討ちにしてくれようという気持ちにはなっていないようだ。

「話が通じる相手じゃねーだろ。なあ娘っ子、軽く追い払っちまえよ」
「誰が娘っ子じゃ」
「相手がなんだろうが傷つけずに済むならそのほうがいいだろ。争わずに済むならもっといい」

 呟いた清白を見やり、葛葉はそっと微笑んだ。そういえばこの人の好い青年は、山中で賊を追い払ったときも峰打ちにしていた。殺生や流血を厭うとは刀を遣う者にしては珍しいけれど、だからこそ解き放たれた猛毒の怨霊を放っておけず、この旅に同行してくれたのだろう。

「穢れた力を取り込んだ人間、と言うたな。もともとヒトならば言葉が届くやもしれぬじゃろ」
「どーだかなァ。獣と化してりゃ期待薄だろ」
「……人妖のくせにまったく言葉が通じぬ輩もおるしのう」
「馬鹿だなっ、他人の言うことに惑わされてたら自分の欲求が満たせねーだろ」
「馬鹿はおぬしじゃ。少しは慎みやれ」

 獣人の爪がすぐ傍をかすめる。仕方なしに葛葉が捕縛の術を編み始めると、清白が背にかばうように進み出た。刀の柄を握り直して獣人と対峙する。
 そこへ雲取が疑問の声を上げた。

「とっ捕まえてどーすんだよ。痛めつけて追い払ったほうがいいんじゃねぇの?」

 構成を組み上げる作業が一瞬とまる。確かに、意思の疎通ができそうもない以上、捕らえても解決にはつながらないだろう。返り討ちにすべきか。いやしかし。どうする。

「せめて襲ってくる理由が分かればな」

 獣人と睨み合ったまま清白が呟く。威嚇の唸り声はいよいよ切羽詰まり、地を這うように低い。

「そうだっ、普通の獣に置き換えて考えりゃあいい! 獣が人間を襲うってーのはどんな時だ?」

 鴉天狗の問いかけに、葛葉の脳裏に閃くものがあった。獣が人を襲う理由。子を守ろうとするとき、縄張りを侵されたとき、そして、

「飢えておるのか、もしや」

 試してみる価値はありそうだ。
 余計な刺激を与えないよう気をつけながら背嚢を探り、葛葉が干し肉の包みを取り出すと、清白の構えた切っ先の向こうで明らかに獣人の様子が変化した。唸り声が弱まり、呼吸に合わせて身体が大きく揺れる。動揺しているのだ。だらりと伸びた舌と、みるみるうちに涎で濡れた顎を見て確信した。
 思い切って干し肉を放り投げてみる。一掴みもある包みは、獣人を通り越してその背後に音を立てて落ちた。

 束の間のためらい。
 三人が固唾を飲んで見守る中、獣人はじりじりと後ずさりし、そしてついに身を翻した。素早く包みを口にくわえて四肢で走り去る姿は大猿そのもので、もはや人間とは思われなかった。