ファンタジースキーさんに100のお題

039. 太陽の希望 (1)


 蛇ノ紗布(おろちのひれ)
 その昔、怨霊封じの折に使われたという火明一族の瑞宝。虹色の光沢を持つ美しいその薄布は、立ちはだかる敵を見えざる神力で抑え込み、身動きの自由を奪うと言い伝えられている。
 瑞宝の神威に打たれた対峙者が一様に硬直する様は、まさに蛇に睨まれた蛙そのもの。
 蛇はすなわち虹。そして虹は、恵み深き太陽神の遣い。光をもたらす猛き陽の女神の、化身だという。


 *


「こんな言い伝え、どこまで本当なんだか怪しいものだと思っていたけど、想像以上のシロモノだったってわけねえ」

 完全に面白がる口調で言うのは、華やかな女物の衣を纏ったリッカ。どうやら物部(もののべ)の里に着くなり着替えたらしい。青墨色の後ろ髪はいっそう複雑な形に結い上げられ、化粧直しも完璧に済んでいる。
 葛葉は額を押さえて呻いた。やはり、どこからどう見ても女性そのものだ。艶めいた魅力のある女性にしか見えない。これが実は男性だなんて悪い夢のようだ。今までの認識をすっかり覆されたような気がする。

 (ぬえ)という種族は一体どうなっているのだろうか。あるいはひょっとしたら、自分が思っていたよりこの世界はずっと広大だったのかもしれない。
 『美しいものが好き』『似合うから女装している』などと公言して憚らないリッカは、自分の身支度をさっさと整えると、里長と挨拶を交わしていた葛葉らを追い立てて、有無を言わさず湯浴み場に押し込んだ。

 客人に対するリッカの振る舞いに恐縮しつつもどこか諦めたような里長の様子から察するに、どうやらリッカは日頃からこういう調子であるらしかった。

「長年ジジババどもが桐箱のまま後生大事にしまい込んでてね。でも中身を検めたら思いのほか見栄えがいいし、びっくりするくらい効果覿面だったわよね」
「そうじゃの」

 蛇に睨まれた蛙状態を体感した葛葉としては肯定するしかない。身動きどころか妖術までもが封じられ、編もうとするそばから構成が砂のように崩れていく未知の感覚は、たいへんな恐怖を呼び起こすものだった。いま思い返しても心底ぞっとする。
 だが、いきなり戦いを仕掛けてきた無礼千万な鵺は、葛葉と手合わせしたことである程度は満足したようだった。今は上機嫌と言えるような雰囲気で葛葉たちの着替えを用意してくれている。

「その泥のついた水干は洗うわよ。髪もよく洗って梳きなさいな。埃まみれじゃないの、汚いわねえ」
「さきほど湯浴みを邪魔されたからのう」
「あ、男どもの湯処はそっち。疲労回復に効く温泉よ、ありがたく浸かってきなさい。湯から上がったら夕餉だからね。固粥と汁粥どっちにする?」
「……固粥で」

 あまりに押しの強いリッカに調子を狂わされているのは葛葉だけではなかった。問いかけに答えた清白はどことなく呆然としているし、傍若無人の申し子のような雲取でさえろくに口も挟めずに指示に従っているのだから、これはもう相当のものだ。

 リッカ相手にあれこれ躍起になっても、疲れるか怒りが湧くかのどちらかになってしまう。先刻の一件でそれを学んだ葛葉は、促されるままに湯を借りて全身を清めた。
 今度こそきちんと髪を乾かし、新しい衣に袖を通すと、ようやく人心地つけたような気がした。


「いやもう重ね重ねのご無礼、一体なんとお詫びしたら良いやら。本当に申し訳ございません。この立花はとにかく幼い頃から奇矯な子でしてね」
「ちょっとジジイ、タチバナって呼ばないでってば」

 湯上がり、夕餉の席にて。
 物部の衆を束ねる長老は、葛葉らが腰を下ろすなり謝罪の言葉を繰り返した。
 そんなに申し訳なさそうな顔をするくらいなら最初から奇行を止めてほしい、とは思ったものの、さすがに口には出せない。葛葉はとりあえず曖昧に頷いておいた。

「奇矯じゃな」
「何はっきり肯定してるのよ。そんなことありませんよー、全然気にしてませんよー、リッカ様ほど美しい人は見たことありませんよー、って言うところでしょうが普通は」
「リッカ!」

 里長の悲鳴じみた叱責が飛ぶ。
 なんとなく彼が不憫になってきた。色々な意味で手に負えない輩というのは、きっと案外どこにでもいるものなのだろう。達観したような気分で葛葉は細く嘆息した。
 清白と雲取は何の疑いもなくリッカを女性だと思っているらしく、やや不思議そうに里長の狼狽ぶりを眺めている。葛葉は改めて沈黙を決め込むことにした。知らないほうが幸せなこともあるだろう。

 やがて、なんとか自力で立ち直った里長に促されて、膳を囲みながらの情報交換が始まる。
 ふるまわれた食事は温かく、身体に染み込んでいくような献立だった。味付けの淡いものと濃いものがはっきり二分されていて飽きさせず、山野の食材が彩り豊かに盛り付けられている。
 穂積の衆からの連絡を受けて、歓待の用意をしていてくれたのかもしれない。昼間、清白と雲取が採った山菜も煮汁にして出されていた。

 物部の衆──鵺は人妖の中でもひときわ謎の多い、能力や暮らしぶりがほとんど知られていない種族だが、こうして食事を共にすると、それだけで打ち解けたような心地になっていくから不思議なものだ。

「……では、瑞宝をお貸しくださるのですね」

 喜色のにじむ葛葉の問いかけに、里長は一も二もなく頷いた。
 リッカはジジイなどと呼んでいたが、人妖の例に漏れず、彼の外見から実年齢を読み取るのは難しい。微笑の浮かぶその顔はどことなく中性的で、独特の雰囲気が感じられる。

「蛇ノ紗布が役に立つならばどうかお使いいただきたい。我々も、あの禍つものを放置してはおけまいと相談していたところなのです。封じに使えるならばこれぞ重畳。死蔵しているよりよほど良いでしょう」
「ありがとう存じます!」

 相手の動きを抑制する神具があれば、怨霊封じという途方もない目標にも実現性が増してくる。
 何しろその効果のほどは実証済みだ。蜂ノ羽衣(すがるのはごろも)で瘴気を祓いつつ、蛇ノ紗布で怨霊本体を抑え込み、刑部姫の作る封呪の石碑を要として氷結封印を施す……。
 厚く不穏な雲の切れ間から、一筋の光が差し込んだような心地だった。

 清白と雲取も喜びに輝く顔を見合わせたのち、葛葉に倣って里長に頭を下げる。
 その時。

「ですがひとつだけ、条件があるのです」

 里長が能面のような笑顔で見つめてくる。先ほどまでの狼狽はどこへやら、妙に断固とした口調だった。