042. 錬金術
術の構成が、鋭く音を立てて打ち破られた。
普段より時間をかけて編み上げた直後。妖力を注いで発動させようという、まさにその瞬間に。
核を砕かれた構成はひとたまりもなく、崩れて風に溶ける。
葛葉は唇を引き結んだ。驚きに一瞬見開いた目が徐々につり上がっていくのが自分でも分かる。
三回連続だ。もうこれで三度続けてリッカに妖術を無効化された。悔しさがこみ上げてくるのも当然だろう。対峙する鵺が美しい貌にさも呆れたような表情を浮かべているからなおさらである。
「まだまだ粗いわねぇ。あり余る妖力頼みのゴリ押しじゃお話にならないわよ。怨霊どころかこのリッカ様の足元にも及ばないって分かってる?」
「ええい、もう一度じゃ!」
再び術の下地を組み立てる。意識して編み目をなるべく細かく、丁寧に余白を削ぎ落としながら。
少しでも甘い部分が生じればリッカは容赦なく突いてくる。これ以上呆れた顔を拝まされるのは癪だ。
物部の里から旅の道連れに加わったリッカは、宣言どおり葛葉に妖術の稽古をつけ始めた。
術の練度を上げる──つまりは隙を減らし、最小限の力で最大限の効果を得るための訓練である。
なにしろ天狐族の妖力量ときたら飛び抜けて膨大で、術の構成がかなり大雑把でもそれを補って余りあるほど桁違いなものだから、今まで葛葉はこの類の修練を重要視していなかった。リッカに言わせれば「力押し一辺倒で野蛮」。まったくもって仰るとおり、お説ごもっとも、である。
人妖の術が猛毒の怨霊にどの程度通用するか皆目分からないが、構成力を磨いておいて損はないだろうというわけで、移動の合間にこうしてリッカと立ち合うのが早くも習慣になりつつあった。
手を広げた指先にまで力が満ちるように、構成の隅々まで意識を向ける。ゆっくりと己の意志を注ぎ込む。
「おお、まーだやってんのか。まったくご苦労なこって」
羽ばたいて地に降りた雲取が能天気な声を上げた。野宿に備えて集めてきた枯れ枝を放り出したかと思うと、大喜びではやし立てる。系列が歪んでやしないかだの、重ねた層が無駄に厚いだのと、実にやかましい。
いつものことなので葛葉は野次り声を聞き流し、目の前の術の組み立てに集中する。
「時間かけすぎー。ハエがとまるどころか日が暮れちまうぞっ」
「こら葛葉、妖力が乱れたわよ。青スジ立ててないで集中しなさい」
「わ、分かっておるわ!」
なおもからかい声を上げ続ける雲取に背を向けると、少し離れた場所で夕餉の準備をしている清白の姿が目に入った。
妖力を持たない人間には術の構成を見ることができない。勘がよければ気配のようなものを察知する場合もあるけれど、人妖ほど詳しく視ることは不可能だ。
だから葛葉たちが稽古をしている間、清白はこうして食事や野営の段取りを調えていることが多かった。携行食の残数を確認したり、愛刀の手入れをしたりと、清白は必要な手順を淡々とこなしていく。人妖三人よりもずっと年若いというのに最も実務的で頼りになる。
心の中で清白へ礼を呟いてから、気を取り直して集中する。
構成を組み上げ、妖力を注がないまま一時固定して、核から外側に向かって撫でるように確認していく。より少ない力でより大きな効果を得るために、余剰や歪みを取り除くのだ。
構成力──妖術の見取り図を描く技術は、この修練を繰り返すことによって磨かれていく。
同じ術を使うにしても、構成の組み方次第で費やす妖力が違ってくるのである。これまで軽視してきたことが悔やまれるほどの、歴然たる差が。
工夫すれば妖力は節約できるし、鍛錬すれば構成を練る速度も短縮できる。目の前のリッカがそれを実証していた。
二日前、腕試しと称して戦いを仕掛けられた葛葉は身に沁みて知っている。リッカの術はおそろしく洗練されていて、そのくせ組み立てるのが速い。つまり発動準備にかかる時間が短いのだ。
目標とする姿が目の前にあるのはありがたかった。
無駄なく、速く、果敢に。
勇猛なハヤブサのように。
「おうおう、焦ってるなァ。肩に力が入りすぎー」
「こら雲取、ホコリを立てるな。煮汁にゴミが入っちまうだろ」
「清白も見てみろよ、ほらアレ。リッカの構成と比べたら月とスッポン、鯨とイワシ、雪と墨っ」
「いや俺にはほとんど見えないって。それよりお前、あんまり構うとまた後で吊るされるぞ。たぶん全部聞こえてるからな」
清白が雲取を促して粥鍋の火を調整し始めたところで陽が落ちて、稽古はお開きとなった。
*
「あんたの場合、なまじ妖力があり余ってるから構成が雑なのよね」
「雑と言うな」
「事実でしょ。美しくないったらありゃしない」
湯で柔らかくほぐした乾飯を口に運びながら、リッカがため息まじりに蒸し返す。
何気ない所作にもどこか品が漂うその姿は、動きやすい旅装であってもしなやかさを感じさせる。舞扇を持って構えればそれだけで華やかな絵になりそうだ。
物部の里を出発してほどなく、リッカの性別は清白と雲取にも知られることとなったのだが、当初の二人はなかなか信じられない様子だった。リッカの美貌と細身の肢体、言葉遣いや仕草。違和感などどこを探しても見当たらないのだから無理もない。『似合うから女装しているだけ』という本人の弁も、分かるようで分からないのだろう。
確かにややこしい輩ではある。
女性の着物を纏って紅を引き、それでいて特段女性として扱ってほしいわけではないと笑って主張するのだ。入浴すら男性組と一緒でかまわないと言い(かといって葛葉と一緒を希望されても困るのだが)、ごく無造作に着替える。むしろ清白たちが若干うろたえていた。
葛葉の見たところ、要するに、リッカは生まれ持った性別が男性であることにさして抵抗感など持っていなそうだった。ただ自分の美貌がより映える衣装を纏い、それに応じた立ち居振る舞いを演じている。
物部の民、鵺のリッカはそういう人物なのだと、数日かけて清白たちもそう単純に受け入れたようだった。
「妖力の総量はどう修行したって増やせないけど、構成を組む技術なんてものは誰でもある程度の水準までいくものなのよ。努力次第でね。なのにまったくあんたときたら。怠慢よ、怠慢」
「承知しておるわ。だからほれ、こうして今も実地鍛錬に励んでおるのじゃ」
「……なあ、葛葉」
しれっと言ってやると、煎り豆をかじっていた清白がつと視線を上げた。
「鍛錬はまことに結構だと思うんだがな。もうそろそろ降ろしてやったらどうだ」
清白が指さす先には、木の枝からぶら下げられて揺れる雲取の姿。巨大な蓑虫そっくりだ。葛葉の術によって封じられた口で、何やらむうむう唸っている。
身体全体でしきりともがくせいで枝が不穏な音を立て始めているのだが、むろん葛葉としては知ったことではない。
まったくもって頭の痛いことに、ここのところ雲取を吊るすのが日課と化していた。口の減らない鴉天狗は強烈な仕置きを据えてやってもちっとも懲りやしない。図太さだけは国一番か。
「そうは言ってものう。あと小半刻も続ければきっと捕縛の術に磨きがかかるぞえ」
「むうう! んうーっ!」
「うめき声がやかましいだろう。せっかく用意した飯も冷めちまうし」
「では食後に改めて吊るすか」
「妖力の無駄遣いはよしなさいって」
「んむうぅぅっ!」
「無駄かのう」
「無駄でしょ。無益だもの。垂れ流しにしてるようなもんよ。そりゃああんたにとっちゃその程度の浪費はどうってことないんでしょうけど。というか、いっそのこと妖力を強制的に抑えるような封じ具でもあればいいのにねぇ」
使える妖力が減れば自然と術の構成を工夫する癖がつくでしょうに、と話を戻したリッカはまたしても嘆息する。
葛葉とてここまで言われるとさすがに心許なくなってくるというものだ。平時ならまだしも、荒ぶる怨霊を追う旅の最中なだけになおさら堪える。
──少ない力で最大限の効果を。構成技術の未熟は研鑽不足と心得よ。
「大事なのは構想よ。羽虫で鯛を釣るとか、小石で熊を倒すとかを思い描くといいかも」
そんな無茶な。葛葉はおののいたが、実際に習得しているリッカを前にすると反論もできない。そして何より、少しばかり挑戦しただけで早々と泣き言を口にするのはいかにも癪だった。
「うむ。やはり日々鍛錬じゃな」
「あ、コラ締め上げるなって、やめ、うげええ……ぐへっ」
「術の重ねがけはそこそこ上手いじゃない」
「雲取が白目むいてるぞ」
「根性の足らん奴よのう。しっかりせい、ほれ」
空中に湧き出た水が鴉天狗の頬を叩く。
木にぶら下げられた雲取が責め苦から解放されるまで、もうしばし時間を要するのであった。
「ったくとんでもねえ暴力娘だな!」
「だから言っただろう、聞こえてるぞって」
盛大に文句を垂れる雲取を清白が半分突き放しつつ一応諭すのだが、相変わらずこの鴉天狗は聞く耳を持たない。
「羽虫で鯛を釣る……? 普通そこは海老ではないのか」
「海老どころかもっと小さな羽虫で大物を釣り上げるってわけよ。一矢で二兎、三兎をも射るだとかね」
一方、雲取を締め上げるのに飽きた葛葉はといえば、食事もそこそこにリッカと妖術談義を再開していた。
「一朝一夕に身につくものじゃないけど、そうやって意識してれば自ずと違ってくるでしょ」
「そうかのう」
「そりゃそうよ。あんた今まで効率化なんて全っ然考えちゃいなかったでしょ。一昨日だって条件反射みたいにぱっと構成組んでジャージャー妖力注いでたじゃない。それに比べれば今のほうが数段マシだもの」
「ジャージャー……」
「ま、同じ吊るし上げるにしても、より少ない妖力で済むように日頃から構成を研究することね」
葛葉は神妙に頷いた。
「千里の道も一歩より、じゃな」
旅程をこなす合間に術の検分を重ねた結果、葛葉は当初の半分以下の消費で雲取を吊るせるようになった。
END