ファンタジースキーさんに100のお題

043. 妾腹の王族 (1)


 記憶の中のあの人はいつも、春を迎えた湖水のように柔らかな表情を纏っている。
 面と向かって蔑まれても黙ってただ微笑み、不遇を嘆くよりも全てを呑み込んで静かに前を向く……そんな人だった。
 その気高さは誰にも顧みられることなく見過ごされたまま、今ではもはや彼女の名を記憶に残している者など幾人もいないだろう。

 皇女ギュルシェン。
 “妓女の子”。敗戦国の血を引いて生を受け、皇国の後宮で顧みられることなくひっそりと成長し、遠い異郷へと嫁がされたのちに戦の嚆矢となった娘。

 思い出す。繰り返し。
 彼女の微笑は己を守る盾なのだと、気がついたのはいつの頃だっただろうか。
 普段はその下に注意深く隠されている素顔を時折見せてもらえることが嬉しく、くすぐったくて、二人だけで秘密を分け合ったような心地だった。

 あの頃の自分の、なんと幼かったことか。
 なぜ彼女が(こう)の娘であるにもかかわらず周囲から取るに足らぬ者として扱われていたのか。どうしてあのような結末となってしまったのか。

 すべてを理解できたのは後年になってからだった。
 彼女が理不尽に喰い散らされ、皇国の領土がさらに拡がった……その後のことだった。


 *


 後宮の暗がりには魔が潜んでいる。
 ジュムール皇国を統べる皇の血族が住まう後宮は、女官たちの手によって常に美しく整えられているが、いつの頃からか一抹の好奇と共にそう囁かれるようになっていた。
 おおかた退屈した女官の戯言だろう。皇妃らは笑って取り合わず、開かずの間や禁足地に手を入れることもなかった。
 ときおり下女が行方をくらましたり、同じ場所で同じような怪我をする者が続いたりすることがあるものの、それとて後宮という特殊な場所ではままある出来事に過ぎない。
 他愛のない言い伝えを真に受ける者はいなかった。──唯一、小さな皇子を除いては。

「さあ、次はどこをしらべようかな」

 幼いアスラン皇子はご満悦だった。
 後宮は広大で複雑な構造を取っており、大小様々の部屋が無数にある。どこへ行くにもついて来る乳母や専属女官を無理やり追い払い、手燭を掲げて小部屋をひとつずつ調べていくのは格好の肝試しだった。皇の息子たる者、暗闇を恐れない証しに一人きりで探検しなければ。

 使われなくなって久しい貴人の居室に忍び込み、蝋燭の明かりを頼りに壁掛けをめくってみる。放置された風変わりな小物を並べ変える。戯れに飾り棚を動かすうちに隠し通路を見つけたこともあった。
 今日の目的地に古い書庫を選び、アスランは意気揚々と歩き出した。

 一夫多妻のうえに女官や下女が数多く生活している後宮はとにかく広大で、生まれてからずっとここで暮らしている皇族であっても足を踏み入れたことのない場所が多々あるほどだ。探検地には事欠かない。

 書庫の入り口に掛け幕はかかっていなかった。ずらりと立ち並んだ棚はほとんど空っぽで、傷んだ紙束や図鑑がまばらに取り残されているだけ。蔵書の大半が以前整備された東棟の回廊型書庫に移されたのである。

 アスランは手燭を上げてぐるりと見渡した。
 かすかに肌を刺す違和感。すぐに気付いた。使われなくなって久しいはずなのに妙に汚れが少ないのだ。今までに探検した古い部屋はどこも乾いた砂埃がたまり、空気が淀んでいたのに。

 手近な棚には数冊の本が置かれていた。めくってみる気になったのは、表紙いっぱいに描かれた絵が彼の目を引いたからだろう。
 大きな黒犬の群れに紛れ込んだ、一頭の小さな銀狼。
 中の絵には短い文章が添えられている。平易な言葉遣いのおかげで彼にも難なく読めた。
 姿形の違う仔狼は黒犬たちにいつもからかわれ、やがてつまはじきにされて……

 ふと薄闇の中で何かが身じろぎした。
 はっと顔を上げ、反射的に手に持っていた燭台を奥へと突き出す。
 息をのんだ。
 徐々に目が慣れていき……“相手”もまたアスラン同様に驚きの表情で見つめ返してくるのを、はっきりと見て取ることができた。

 まん丸に見開かれた瞳は明るい青色。灯りの向こうに浮かび上がった乳酪のような肌と、蜜めいた艶のある長い髪が、どこか遠い異国の風を強く感じさせる。
 少女だ。それもひどく華奢な。

「……おぬしも探険していたのか?」

 相手はアスランよりも背が高く、いくつか年上に思われた。だが痩せて貧相な体つきをしており、怯えたような風情だったので、先に声をかけてみることにしたのである。
 しばし様子を見る。反応がない。

「ちがうのか?」

 彼女は固まってしまっているようだった。
 仕方なくアスランは改めて少女を眺めた。質素な服装。装飾品の類をまったく身に着けていない。
 下働きにしてはあまりにも幼く、かといって身分ある者のようにも見えない。相手の素性を測りかねて、その不思議な色合いの髪──金髪と赤毛の中間のような珍しい頭髪──に見入った。

「……ご、めん、なさい」

 それが彼女の第一声だった。かすれた小さな声。まるで今日初めて言葉を紡いだかのような。

「なぜあやまる?」

 しばらく待ってみても答えは返ってこなかった。アスランを凝視する少女の、色の薄い唇がわななくように小さく開く。だがそれだけだった。言葉が出てこない。

「私は毎日いろんなところを探険しているんだ。ここに来たのははじめてだけど、だれか他にも人がいるとは思わなかったぞ」

 辺りの棚を眺め渡しながら、アスランは半ば独り言のように言う。薄暗闇で女の子に驚いてしまったのが少々恥ずかしかったのだ。

「……わたしも」

 囁き声に振り向くと、少女が呆然としたように呟く。

「わたしも、ここに誰か来るとは、思わなかった……」
「この部屋によく来るのか?」

 少女はゆっくりと頷いた。「ときどき……」と消え入りそうな声で囁く。
 先ほど頬をかすめた違和感が再びアスランの上に舞い戻ってきた。使われなくなった古い書庫。だが同時に納得の思いも浮かんでくる。砂埃の少なさは、この娘が時折出入りしているせいなのか。

「ここで何をするのだ」

 秘密の仕掛けでもあるのだろうか。もしくは絵本以外に面白い本が隠されているだとか。
 だが期待はすぐに破られる。

「なにも」
「……何も?」

 信じがたい答えであった。
 幼いながらにアスランは考えた。時間をかけて達した結論は、無理にあれこれ聞き出そうとするのはよくない。きっと彼女には何かしらの事情があるのだろう、というもの。
 ならばせめてと名を訊ねると、予想外にはっきりとした声で少女は名乗った。

「わたしはギュルシェン。皇の、娘よ」

 驚きよりも先にアスランの胸中に浮かんだのはいくつもの疑問だった。
 皇の娘。ということはつまり……自分の姉ということになる。
 けれど今まで一度も会ったことはなく、まったくの初対面だった。こんな珍しい髪の色、一目見たら忘れるはずがないのに。

 父親である皇には幾人もの妃がおり、異母きょうだいの数も多いのだが、折々の公式行事やお茶会などの催し事がわりと頻繁にあるおかげで、母親違いの兄弟姉妹とは日頃からそれなりに行き来があった。
 彼女の母親は一体どの皇妃なのだろう。
 こんな打ち捨てられた場所にひとりぼっちで、何をするでもなく時間を過ごしていた“異母姉”。
 どうして。脳裏を巡るのはその問いばかりだった。

 アスランが名乗り返し、自分の身分を告げると、ギュルシェンは曖昧な表情で頷いた。服装や言葉遣いから推測したらしい。

「ギュルシェン……“幸せな薔薇”か」

 きれいな名前だと思った。
 でも本人はまるで萎れた野花のような様子で、その落差が子どもの目から見ても痛ましい。

「アスラン、あの、誰にも言わないでくれる……?」
「なんのことだ?」
「わたしが、ここにいたってこと……。ここにいると、安心できるの。だから」

 澄んだ青色の瞳が食い入るように見つめてくるのと対照的に、か細い声は今にも消え入りそうだ。
 彼女は他の異母姉たちと何もかもが異なっていた。
 たくさんいる姉たちはみな着飾り、つんと澄まし返って取り巻きの女官にかしずかれている。こんなふうに何かを頼み込んでくることなど決してないだろう。
 風変わりな少女の真剣な口調から、本当に誰にも知られたくないのだと察せられた。

「わかった。だれにも言わぬ。私とギュルシェンだけのひみつだ」

 ほっとしたのか、彼女の肩から力が抜ける。と同時に表情まで柔らかく綻んでいった。

「ありがとう」

 束の間、その白い顔に見入る。
 例えるならばただ一日しか咲かぬ希少な花にも似た、とても繊細な微笑みだった。