044. 古の巫女 (2)
人形師の末期は、幾人かの村人を介して鎮守の森へともたらされた。
──さらなる悪夢の幕開けである。
巫女は嘆き、怒り狂い、穢れを加速させて病の床についた。穢れと怨念に浸かった巫女は元の清雅さなど見る影もなく、誰にも手の施しようがなかったという。
現世の全てを呪いながら、彼女は半年の後に息絶えた。桜の季節だった。
そして異変はすぐに始まった。
怨霊が現れたのである。美しかった以前の顔で、巫女装束すらそのままで。
生まれながらに霊妙なる力を持っていた巫女は、怨嗟を抱いたまま肉体の枷を解かれ、人外の存在へと転化したのだった。
言葉は一切通じず、無慈悲に、無差別に村人の命を奪っていく怪異。
集団暴動を起こした者たちは、その行いが故郷に自ら火を放つに等しかったことをようやく理解したものの、時すでに遅し。巫女の怨霊は祟り神となって猛威を振るった。
もはや村中が死に絶えるまで彼女は鎮まらない──
恐怖のあまり故郷を捨てようとする村人もいたが、街道へ逃れる前に必ず亡骸を晒す結果となったという。
そうした中、巫女の荒ぶる魂を慰めたのは、たった一人の幼子だった。
なんの力もない、言葉すらまだ覚束ないような、ただの村人の子である。貧窮と怨霊騒ぎの最中、親が目を離した隙に起きた出来事だった。
辺りに漂う毒気に気づかずよちよちと踏み入り、幼子は巫女に人形を差し出したのだ。単なる玩具ではない。それは件の人形師が作ったものだった。
人形師が殺された後、家財道具は売り払われ家屋も取り壊されたが、子ども時代の習作のような作品まではさすがに値がつかず、村の童子たちに無造作に与えられたのだ。
幼子から受け取った人形を胸に抱き、怨霊はひときわ高く咽び泣いた。
泡を食って我が子を抱き取った母親の目の前で、やがて巫女の姿は舞い散る桜の間に溶けて消えていったという。
荒れ果てた村の人々がなんとか生きながらえることができたのは、その後まもなく、遠く中央から救いの手がさし伸べられたおかげだった。支援物資と共に役人たちがやって来て、村を立て直す手助けをしてくれたのだ。
巫女が病床から書き送った嘆願が、御上に聞き届けられたのである。
「それ以来、この村ではつがいの人形を祀るようになったのさ。二人の魂を慰めるためにね」
と老婆は話を締めくくった。
彼らが命を落とした時節にちなみ、女の着物には曼珠沙華が、男の着物には桜が描かれるのだという。
一同の視線が二体の人形に吸い寄せられる。
現世では結ばれなかった男女の形代は、手と手がぴったりと縫い合わされて、まるでひとつの生き物のようにも見えた。
*
「……という話だったんだ。これを聞いて雲取、あんたはどう思う?」
「ふむ。つまりお前さん方は、ワシのいない間にみんなして団子を買い食いしたってことだな! けしからんぞっ」
しばしの沈黙ののち、葛葉がこれみよがしに深いため息をついた。
「だから言うたであろ。こやつに意見など求めても無駄じゃと」
村の言い伝えの中に、気になる点があったのだ。
『巫女が怨霊と化した』。
『幼子が毒気の中へ踏み入っても命を吸われなかった』。
もちろん昔の出来事ゆえに誇張や曲解もあるだろうが、その二点は看過できない要素に思われた。
そして辺りを気ままに飛び回って羽を伸ばしてきた雲取と合流し、茶屋の媼の話を伝えて最年長者に見解を請うたところ、返ってきたのがこの歯切れの良い返答である。
怨霊は、最初から怨霊として生じたものではないのか。
怨霊の間近に居合わせても毒気の影響を免れる場合があるのか。
それを再び封じるために旅に出たというのに、考えてみれば肝心なことを何も知らない一行であった。
葛葉の脳裏に浮かんだのは、木霊たちの穂積の里へと向かう途中で出くわした『獣人』の姿。ヒトが大きな力を宿せば人外と化すことがあると、あのとき雲取は言っていた。
だとすると、この村の言い伝えの信憑性は高いのかもしれない。
「個人差はあるけれど、人妖よりも人間のほうが穢れに強いものね。妖力がないぶん自然界の気脈の影響を受けにくいから。毒気の中でも無事だったっていうのは、そうおかしなことでもないと思う」
リッカの発言に清白が頷いた。彼は怨霊解放の現場となった白碇城に踏み込み、衰弱しきった葛葉を濃密な毒気の中から救い出したのだ。いわば実証者である。
人間は、怨霊に接近しても、必ずしも命を吸い取られるとは限らない。どうやらそう考えてよさそうだった。
それにしても、とリッカが嘆息した。「情念によって怨霊に成るなんて度し難いわね。人間ってのは寿命は短いし身体も脆弱なのに、まったくこれだから油断ならないわ」
葛葉は唇を引き結んだ。
古の怨霊は、力ある巫女がその前身だったというのならば。
(白碇城に封じられていたあの怨霊にも、なんらかの前身が……?)
怨霊に、成る。脳裏に思い浮かべただけでもおぞましい響きの言葉だ。
今なお命を食い荒らし続ける怨霊の正体を知る者が現世にあるとすれば、刑部姫に他ならない。かつて葛葉の父・白蔵大主と共にそれを封印した賢者。すぐにでも直接会って訊ねたいが、彼女は新たな封呪の碑を作っている最中だ。作業場である殿舎まで引き返すわけにもいくまい。
(次に連絡を送る際に訊くかの)
不意に鳥肌の立った腕を押さえながら、葛葉は村の方角を振り返った。
かつて怨霊によって滅ぼされかけたという小さな村は、今では平穏そのものに桜の季節を愛でている。
縁台に置かれた一対の素朴な人形だけが、もの言いたげに見送っているような気がした。
END