番外編

薄雪草

「──雪」

 低く、柔らかい声が少女の名を呼ぶ。
 たった一言の、その中に込められた厳然たる意志を感じ取り、少女は無言で立ち上がった。瑞々しい黒髪がさらりと揺れる。
 清雅な容貌の娘である。
 落ち着いた雰囲気と透徹した眼差しのせいで大人びて見えるが、実際の年齢はまだ十代の半ばほどだった。
 幼い色合いを残した顔は大層白く、衣服を通して見受けられる四肢は、しなやかだが多少華奢すぎることは否めない。
 体重を感じさせない軽やかな足さばきで、彼女は部屋の主である男の前に歩み寄った。

 その足運びは、梟の飛翔、あるいは猫の所作を連想させた。見る者が見れば、明らかに常人でないと判る身のこなし。
 だが、彼女のそんな尋常ならざる一面を垣間見ても、男は訝しみも、一片の恐れも抱かなかった。
 それもそのはずである。
 そういった、裏稼業者たり得る諸々の技能を身につけることを、遠いあの日に彼女に許可したのは、他ならぬ彼自身なのだから。
 彼──宮乃木柊一は、一般人には決して知り得ぬ裏の顔を持っていた。

「ヒイラギ」

 それが彼のもうひとつの名前。
 少女は、彼の『裏の顔』を知る数少ない人間の一人であった。

 この世の中には、光の届かぬ領域が確かに存在する。
 闇に守られ、悪逆の限りを尽くす咎人たちが存在する。
 法の網を無視し、あるいはかいくぐり、己の持つ権力と暴力のみを盲信し、より多くのものを際限なく求め続ける。そんな輩である。

 そして今。
 そんな連中に対抗する唯一の光明。法で裁くことのできぬ咎人を、秘密裏に断罪する闇の仕事人が、この瞬間まさに生まれようとしているのだった。
 牙持つ獣どもに虐げられ、声もなく押し潰される、力なき人々を守るために。
 毒をもって毒を制す、いわゆる必要悪として。

 家族を亡くし、ヒイラギの保護下に置かれて以来の六年間、少女が地下社会の英才教育を施され、暗殺術──特に、素手で人間を殺めることすら可能な『実戦技』を集中的に習ったのは、全てこのためだった。
 黒髪と群青色の瞳を持つ少女、月城雪の運命は、静かに、だが確かに動き始めた。
 歯車は止まらない。少女は無法地帯へと入り込んだのだ。
 先には“夜刀”として暗殺を繰り返す日々が待っている。
 血にまみれた十字架を胸に抱き、突き刺さるような冷風の中での生活が待っている。

 その果てにあるものは何なのか、少女は想像もつかなかった。
 狂気か。修羅か。完全な虚無か。あるいは死か。
 ……それは行き着いた者にしか知り得ない。
 だが彼女は選んだ。
 『エーデルワイス』として、自ら罪を背負って生きることを。
 彼の優秀な道具たること。それは自身への誓約。
 幼かったあの日に、救いの手を差し伸べてくれた彼のために。
 そうして少女は『エーデルワイス』を名乗る。
 罪と誓いの証として。
 かつて幾人もの若い生命を摘み取った、銀嶺の幻花の名を。

 エーデルワイス──それは気高く哀しい、霊峰の花。


 END