番外編

あり得ぬ未来

 大切な大切な、あの人がいた。
 凪いだ春の海のような人。柔和な笑みを浮かべ、こちらを見つめる彼が。
 彼は微笑み、語りかけ、そして、そっと手をさしのべてくれた。
 さし出された大きな手に自分の掌を重ねようとして、雪は一歩前へと踏み出す。
 しかし届かなかった。彼は少しずつ遠ざかっていく。手をさしのべた姿のまま、浮かべた微笑みもそのままに、まるで見えない力に吸い寄せられるように。
 驚いてもう一歩踏み出すと、彼との距離は一瞬にして数歩分のびた。
 また数歩歩み寄る。やはり彼は雪から離れていってしまう。
 とうとう雪は走り出した。泣いて彼の名を呼びながら。
 すでに絶望的な隔たりとなってしまった彼との距離は、どんなに走っても絶対に縮まってはくれないのだと悟りつつも、それでもなお、雪は走った。

 ふと彼の背後に気配が生まれる。
 突き刺さるような鋭い害意。
 研ぎ澄まされた殺意は、はっきりと彼に向けられていた。
 それを察知した刹那、凍るような戦慄が雪の意識中を駆け抜ける。
 雪は叫び、もつれる足を叱咤して彼のところへ行こうとした。
 喉を震わせ、彼を凶弾から護ろうと血を吐く思いで手を伸ばす。
 喉が破れてもいい、骨が折れてもいい、どうか彼の傍へ。
 不意に、彼の笑みが深まった。
 もう少し。あと少しで彼に手が届く。優しい微笑みを浮かべ、腕を広げて待っていてくれる、彼のところへ。
 いま行くから。
 必ず護るから。
 無我夢中で手を伸ばし、身を投げ出した。

 ……けれど、最後には。
 圧倒的な力に胸板を貫かれた彼は、ゆっくりと崩れ落ち、そして息絶えてゆく。

 ──ヒイラギを、連れていかないで──

 泣き叫んだ、自分自身の悲壮な声に、雪は思わず目を覚ましていた。

 *

「──っ!」

 跳ね起きると、涙が頬を伝い落ちた。
 視線を巡らせてみるまでもなく、マンションの自室、ベッドの中。
 カーテンの向こうはまだ薄暗い、夜明け前。何も異常はない──部屋そのものには。

 幾度か浅い呼吸を繰り返してから、ようやく雪は自分の呼吸が乱れていることに気がついた。体育の授業程度では息ひとつ切らさない、それゆえ周囲の注目を避けるための演技を必要とする自分が……肩で息をしているなんて。
 髪が肌にじっとりと貼りつく。
 激しく動悸を打つ胸を押さえ、ただの夢だ、益体もない幻なのだと言い聞かせて、冷や汗が引いていくのを待った。

(なんて嫌な夢)

 身体に纏わりつく悪夢の残滓を追い出すように、雪は長々と息を吐いた。

 あってはならない、決してあり得ぬはずの夢だった。
 雪がエーデルワイスとして働く限り、ヒイラギに付き従って腕を振るい続ける限りは実現されない、ただの悪夢。
 なぜならヒイラギは雪の全てだから。彼の意志、彼の生命を最優先として働くエーデルワイスが存在する限り、ヒイラギの横死などあり得ない。
 自分が死ぬときはヒイラギの盾となって。ヒイラギより後に生き残ることはないと、雪は確信していた。

(まして、あと二年もすればいつもヒイラギの傍にいられるようになるのだから)

 目元を拭った指先がいつになく熱い。
 涙の欠片を包み込むようにして握りしめた手を、夜着の上からそっと腹に当ててみた。

 ≪桜花≫が強大になるにつれ、首領たるヒイラギが狙われる可能性は確実に増大していく。場合によっては事故を装い、表の世界で働いているときに襲われるかもしれない。
 そうした危険から彼を守るため、雪は高校を卒業したらすぐに第二秘書となって彼の傍へ行くことが決まっていた。
 それはすなわち、表裏双方の世界において彼につき従い、彼を護るということ。
 一般社会でも彼ほどの地位にある者ならば複数の私設秘書を持ってもおかしくはないし、そのための準備は水面下で着々と進んでいる。第一秘書のサルビアから秘書業務についての教示を受ける傍ら、ヒイラギの表の仕事についての勉強も順調である。

 “夜刀”に二名の人員を引き込んだのも布石のひとつだった。
 本来なら雪一人で充分な役割なのだが、何らかの火急の事態が生じた際、護衛と暗殺の掛け持ちなどしない方が賢明だろう。雪がヒイラギの守護に徹するために、予備暗殺者としての人員が必要なのである。
 “夜刀”所属となった二人──悠二と将はまだ若く、全くの外部から拾ってきた人材なので、闇に生きる者の基礎から教え込まねばならなかったが、幸いどちらも筋は悪くない。高校卒業までの残り期間、徹底的に仕込めば、万一のときに彼ら二人だけでも任務を遂行できるようになる見込みだった。

 そう、全て予定どおり。異常などない。
 だからあれは、あり得ぬ悪夢。
 あってはならぬと殊更に忌避するがゆえの、反作用の幻。

 ──ヒイラギを、連れていかないで──

 怯えなくていい。
 嘆かなくていい。
 なのに、なぜだろう、目が熱くて視界がぼやける。
 後から後から溢れてくる涙のとめ方がどうしても思い出せなくて、困惑した。

(ヒイラギ……)

 津波のような慕わしさ。
 獰猛なまでの想い。
 なすすべもなく飲み込まれながら、早く朝がくればいいと願った。
 夜明け前の、早春のこと。


イラスト: