1:桐生悠二 (2)
「それにしても、これはちょっと遅すぎるわね」
左腕に巻いた時計を一瞥し、夏実が不審げに首を傾げた。
今回の依頼主は、とある報道機構の一部門。M製薬会社が薬剤品を海外に不正流出している疑いが大きいので、証拠を掴んでほしい、というビッグな依頼である。あまりにも規模が大きすぎて、悠二は前金が指定口座に振り込まれるまで信じられなかったくらいだ。
普通こういう件は、警察なり公的な調査団体なりの仕事であって、しがない私立探偵の出る幕ではないのだが、いかんせん証拠不足。事が明るみに出ないと腰を上げない公的機関は当てにならない、ということらしい。
そんなわけで、悠二たちは雪の中、密談の証拠を押さえるべく身を潜めているのである。
盗聴とホストコンピューターへのハッキングの結果、今日この時間に極秘商談が行われることは分かっていた。現場となる高級料亭にはすでに盗聴器を取りつけ、録音や撮影の準備も完了している。
だが、いくら待ってもそれらしき人物がやって来ないのだ。
製薬会社側は仲介人を使っているはずだし、薬剤を海外に流している側の人間は、おそらくその業界の玄人。鍛えられた悠二と夏実の眼で見れば、一目でそれと判るはずである。
降りしきる粉雪の中、物陰に隠れた悠二は、注意深く店の入り口付近を見回した。辺りには誰もいない。商談は見送りになったのだろうか? それとも……
悠二が深呼吸しかけた、その時。
「お前たちカ? 近頃M製薬を嗅ぎまわっているのハ」
ぎょっとして身を強張らせる悠二と夏実。
ぎこちない日本語と共に突如現われたのは、三つの人影だった。いずれも、東洋人の男という以外に際立った外見特徴はないように見える。ひどく剣呑に輝くその双眸を除けば、であるが。
一体いつの間に背後を取られたのだろう。気配は感じなかった。雪のせいで感覚が狂っていたのだろうか。
──しくじった。
じとりと掌が汗ばむ。
視線を走らせれば、夏実も同様だったらしく、緊張した面持ちで身体を強張らせている。
「これは警告ダ」
「今後一切、M製薬の周りをうろつくナ」
威圧的に言い放つ男たち。おそらく薬剤の密売買ルートに関わっている連中なのだろう。推測だが、バックには国際規模のマフィア、といったところか。
こんな、いかにもマトモでない連中が出てきたということは、もはや明らかにM会社の疑惑はクロ確定なのだが……依頼主が欲しいのは物的証拠。
さて、どうしたものか。
「お前たチ、誰に雇われタ?」
最初に声を発した男が訊ねた。
それはむしろ優しい口調だったが、悠二には凶暴な人間が無理に猫なで声を作っているようにしか聞こえなかった。さながら、子ヤギたちの家に押し入ろうとする狼のように。
いつ暴発するか分からない危うさを秘めたまま、男は重ねて訊く。
「警察じゃないだろウ? 連中ハ、こんなイレギュラーな動きはしないからナ。誰ニ、雇われたんダ?」
──ここで、悠二と夏実に与えられた選択肢は三つあった。
その一、正直に依頼主の素性を教える。
ただしこれは守秘義務の契約違反。つまり探偵失格だ。しかも依頼主にも危険が及んでしまう。
その二、嘘を教える。
これはけっこう有効なテだ。破れかぶれではあるが、うまくやればこの場を切り抜けることができるだろう。
追い詰められて、とっさに悠二の口をついて出たのは……
「生憎だが、こう見えても秘密は守る主義なんだ」
その三、依頼主の秘密は墓まで持っていく。
探偵の鉄則だ。だが、この場このタイミングで吐く台詞にしては、少しばかり言葉尻が不敵すぎた。案の定、夏実はぴくりと眉をひそめ、男たちは一気に色めき立つ。
「このガキ!」
男たちが口々に喚いた言葉は、聞き慣れないものだった。北京語、だろうか。悠二は己の軽口を後悔しつつ、それでも頭の片隅にメモを取った。
「いつまデそんな口をきいていられるかナ?」
一人だけ冷静だったリーダー格の男が、懐に手を伸ばす。そこから引き抜かれたのは、予想通り、冷たく黒光りする拳銃。
悠二は後退りしながら、ようやく悟った。自分たちは罠にはめられたのだ。盗聴もハッキングも、相手の手の上で泳がされていたにすぎなかった。
つまり、この後に待っているのは……
かつて暴力団関係の調査に失敗して、日本海に沈められた同業者の顔が脳裏に浮かんだ。
探偵という職業を選んだ時、かすかな予感はあった。自分は畳の上では死ねないだろう、と。法に守られた表の世界と、光届かぬ闇の世界とを行き来する仕事なのだ。いつそうなっても不思議はない。今回の依頼を引き受けた時に、きっちり腹は括ったはずだった。
けれど。
自分の額に向けられた銃口の中に、虚ろな死の色を見つけて。
あの気丈な夏実が、押し殺した短い悲鳴を上げるのを聞いて……
強く、思った。
今じゃない。
ここでは死ねない。
──夏実を、夏実だけは守らなければ──
それから後のことは、ほとんど覚えていない。
記憶を辿ろうとしても、側頭部が鈍く痛むばかりで何も思い出せない。
気がついた時には、もう、全てが手遅れだった。