異端者たちの夜想曲

1:桐生悠二 (3)

「……なつ……み……?」

 声が震え、視界が霞む。なぜか左腕の感覚がなかった。
 そして、獰猛なまでに痛む胸。まるで、見えない手に心臓を鷲づかみされたかのようだった。

「なつ……み?」

 男たちの姿はどこにも見えない。ただ深々と降り注ぐ雪。

「夏実!」

 悠二はかすれた声をふり絞り、相棒の名を呼んだ。
 だが返事はない。
 すぐそこにいるのに。目の前にいるのに。

「夏実! ──夏実!」

 悠二の声は雪風にかき消されてしまう。
 ああ、この雪! ちょっと静かにしてくれよ、夏実の声が聞こえない──

「夏実……?」

 彼女は倒れ伏していた。積もったばかりの雪を鮮血に染めて。
 白い大地が、そこだけ生命の紅に染まっている。その中心に、彼女は静かに横たわっていた。まるで、紅い花から生まれた女神のように。
 悠二は言葉すら失って、その光景を凝視した。

「……あ……」

 これはリアルな悪夢?

「……ああ……」

 きっとそうに違いない。彼女が応えてくれないなんて、あるはずがないから。
 でも、もうあの連中はいない。大丈夫だから返事をして、そして笑顔を見せて。
なあ、夏実……

「夏実ぃ……返事、してくれよぉ……」

 悠二は息も絶え絶えになりながら、這いずって彼女の傍まで行き、その身体を軽く揺さぶってみた。

「夏実……」

 だが、返事は返ってこない。
 決して返ってはこなかった。

「……あ……ああ……」

 夏実の顔が、純白に彩られていく。
 夏実、夏実、夏実──…!

「あああああああああああああっ!!」

 悠二の咆哮は長々と尾を引き……
 そして、雪空に吸われて消えていった。


 *


 ──今日、また人を殺めた。
 仇を討つために、別の人間を殺める。夏実の名を盾に、人殺しの道を歩き続ける。
 悠二がしているのはつまり、そういうことだ。
 今の自分を見たら、夏実は何と言うのだろうか。悲しむだろうか。

 悠二はまた煙草に火をつけた。
 こうしていると、心の中に澱んでいるもやもやが少しだけ晴れるような気がする。任務の後には、一箱丸ごと吸ってしまうこともざらだった。
 たぶん今頃は、同僚である将も、何らかの方法で気持ちを鎮めているに違いない。彼がどういった経緯で“夜刀”に来たのかは知らないが、やっていることは殺人をはじめとしたあらゆる犯罪。心的葛藤をなだめすかし、次なる任務に臨むためには何らかのドーピングが必要だろう。
 いくら表面を繕ってみせても、人を殺し続けて正常でいられるはずがないのだから。

 カーテンを開け放したままの窓から、満月の淡い光が見えた。

(そういや、俺の初任務もこんな月夜だったな……)

 今から一年以上前のことだ。

「彼女がエーデルワイスよ。任務の詳細に関しては彼女の指示に従ってね」

 そう言ってサルビアが紹介したのは、まだ十代の少女だった。
 長く艶やかな黒髪と、日本人離れした群青色の瞳。白い肌、華奢な身体つき。どれも人目を惹くには充分な要素だったが、悠二は一目でその神秘的な双眸に気を取られた。
 感情の起伏がまるで見えない、宇宙の深淵のような瞳。こんな目をした人間には会ったことがない。彼女──エーデルワイスこと月城雪の瞳には、決して揺るがない、真冬の澄んだ湖水のような静謐さが宿っていたのだった。
 だからだろうか。悠二には、闇に溶け込む漆黒の仕事服に身を包んだ彼女が、あらゆる苦難を受容する聖職者のようにも見えた。

 悠二が勧誘を受け入れた当時、“夜刀”のメンバーはその少女だけだった。彼女がたった一人で全ての任務をこなしていたのだ。
 エーデルワイスに引き会わされた後、悠二はしばらくの間、目の前の少女と『鋼鉄の暗殺者』という二つ名がどうにも結びつかず、内心首をひねっていた。
 しかし初任務に臨むや否や、それは見事に一致することとなる。

 ──彼女の技能は凄まじかった。そして完璧だった。
 あまりに完璧すぎて、悠二は消音装置付き拳銃と麻酔銃を与えられていたものの、何一つすることがなかった。強いて挙げれば、少女の流れるような一連の作業を見ることが、悠二に課せられた主な仕事だったと言えよう。
 雪はまずセキュリティシステムに干渉し、その全機能を凍結させた。
 当然システムは不正侵入者に抗おうとしたのだが、それをねじ伏せる彼女の手腕といったら、およそ尋常のものではない。彼女は設計責任者のようにシステム構造を熟知しているのだろう。
 控えめに表現しても、まるで魔法を見ているようだった。任務は万事その調子である。

 いったいどういう経歴の持ち主なのか、雪の闇技術に関する造詣の深さは大変なもので、悠二はことあるごとに畏怖を覚えずにはいられなかった。
 彼女はまるで、そのために生み出された自動人形のように任務をこなすのだ。豊富な知識と経験から打ち出される、一抹の無駄もない行動。あらゆる難事をすんなりと片付け、眉ひとつ動かさずに標的を手にかけるその姿は、一度見たら誰もが忘れられないだろう。
 彼女は感情を持たぬ死神のごとく冷厳で……そして美しかった。

 悠二は任務中の雪しか知らない。
 冷たく凍りついた表情、抑揚に欠ける声、人道とはおよそ無縁のずば抜けた闇技術。
 だがそれらを目の当たりにしてもなお、彼女が人格の破綻した殺人鬼とは、悠二には思えなかった。
 確かに雪はとびきり上等な暗殺技術者だけれども、彼女の振る舞いにはどこか……透徹した意志のようなものが感じられるのだ。
 何より、あの瞳。あれは破綻をきたした狂者のものではありえない。
 悠二は思う。感情が欠落しているのではなく、何らかの理由があるのだろう、と。
 年端のいかぬ少女が、光届かぬ地下世界で暗躍し、血を浴び続けるだけの理由。それが何なのかは、悠二には分からない。
 だが彼女もまた、後戻りできない道と過酷な生き方とを選択したのだということを──己の同朋であることを、悠二は直感的に悟っていた。


 *


 気がつくと、いつの間にか月が傾きかけていた。
 煙草の火もとっくに消えている。少し物思いに没頭しすぎてしまったようだ。

(ま、そんな日もあるさ)

 悠二は細く息をつく。部屋を覆う静寂に圧されるようにして、悠二は深呼吸した。目を閉じると、張り詰めた心がゆるゆるとほぐされていくのが分かる。
 ひどく疲れていた。

(……夏実……)

 心地よい闇に、悠二は身を委ねる。
 もはや何も映さぬ片目の奥に、失われた大切な人との想い出を封じ込めて。
 冷えた部屋の中、そうして悠二は今夜も孤独な眠りについたのだった。