2:林原将 (6)
「痛っ! 気をつけろよ!」
肩がぶつかり、一瞬遅れて浴びせられた罵声。将は立ち止まったが、ぶつかった相手は見向きもせずに立ち去ってしまう。吐き捨てられた言葉の残滓だけが、冷えた虚空に取り残された。
誰もが白い息を吐き出しながら、足早にどこかへと向かって行く。せわしなく、苛つきながら。
将は再び流れに身を任せて歩き始めたが、いくらもしないうちに、休むことなく歩み続ける群集から押し出されてしまう。道の隅へと押しやられるまま、おぼつかない足取りで通りすがったショーウィンドウ。
(……え?)
思わず将は足を止めた。
そこには、見知らぬ自分自身が映っていた。
(これが、オレ?)
こけた頬、薄汚れた身なり、生気の抜け落ちた表情。何より、その虚ろな双眸がショックだった。これでは生者というより死者に近い。
(今のオレは、こんな眼をしているのか)
だが考えてみれば、当然のようにも思える。生きる意志の欠落。それは緩慢な死と同義ではないのか。
しばらくぼんやりとウィンドウを眺めていたが、向こう側で接客中の女性店員とガラス越しに視線が合って、将はその場を離れた。ふらふらと、暗い方汚い方へと移動する。普通の人なら近寄らないような区域へと。この頃にはもう、それが癖になっていた。獣が獣道を見出すのと似ているかもしれない。
裏路地の奥、昼なお暗い建物と建物の隙間。将は壁にもたれて、物陰に隠れるように腰を下ろした。カビやゴミの臭いも気にならない。縄張りに入り込んできた異物に、野良猫やカラスは怒るかもしれないが、どうでもよかった。
身体も心も、全てを疲弊感が支配していた。
もう、疲れた。自分は一体、なんのために生まれてきたのだろう……。
父は、生まれてこのかた嫌悪以外の感情を向けてくれた試しがない。それどころか最終的には首を絞めようとすらした。
遺伝子上の父は、名前すら知らない。
母は……産み落とした男児が災いの化身であると信じていたに違いない。あの女はいつだって自分だけが大切で、しかもそれを隠そうともしなかった。
そして、おそらくあの家で唯一まともな判断力を持っていた姉は、進学を口実に生家を見限った。そうして徐々に疎遠になり、就職を機に連絡を絶った彼女は、きっと今頃あんな家のことは忘れて幸せな生活を送っているのだろう。
遠い遠い存在。
かつての級友たちだって同じだ。クラスメイトが行方不明ということで一時は騒いだかもしれないが、卒業アルバムにも載っていない一生徒のことなど、もうとっくに忘却可の判を捺してしまっただろう。
それから……ルソン。ルソンは今どうしているのだろう。別の街へ移り住み、ほとぼりが冷めた頃にまた似たようなことを始めてその日暮らし、といったところか。
ピリピノ語の歌をハミングしながら、ふらふら生きている気楽なルソン。一時の同居人のことなど、いつまで覚えていることやら。とはいえ、その軽さが彼らしいのだが。
……フクは死んでしまった。殺された。お祈りの最中は、他のことなどさっぱり耳に入らなくなってしまうフク。きっと祭壇の前で膝を屈して祈っているところを、あのゲスな連中に背後から襲われたのだろう。
あの四人。親の稼いでくる金で何不自由なく暮らしているくせに、鬱積した気分を晴らすために、遊びで他者に暴力を振るったというクズみたいな奴ら。
街の美観を損ねるだのとホームレスを一掃しようとするくせに、警察はどうしてああいう手合いを放っておくのだろう。あの四人だけではない。路上生活者が襲撃される事件は頻発しているのだ。同一犯などではありえない。ニュースや特番報道を聞いて、面白そうだから真似してみようという気を起こした模倣犯がいるのだろう。それも複数。
……ああ……
一体、何がどうなっているのだろう。
これが、安全大国?
日本は文化的な先進国じゃなかったのか?
どうかしている。狂ってる。
もし、オレが狂っていないのだとしたら……
狂っているのは、社会そのもの。
そうだろう?