異端者たちの夜想曲

2:林原将 (7)

(オレが狂っていないのだとしたら、狂っているのは、社会そのもの……そうだろう?)

 将は薄く目を開けた。
 ここは静寂に包まれた新築マンションの一室。将の目下の寝ぐらである。ひと仕事終えた後、どうやらそのまま眠り込んでいたらしい。血臭の纏わりついた仕事着に身を包んだままだ。我ながら、意外に図太い神経をしているものだと思う。

 とりあえず部屋の電気をつけて、将は漆黒の衣装を脱ぎ捨てた。
 今夜の任務も、滞りなく完了。将が“夜刀”チームに加わってからまだ半年足らずだが、その間にこなした任務は少なくない。どれも表沙汰になることなく、闇また闇へと葬り去られた。

(この服には、『咎人』たちの数だけ断末魔が染み込んでいる……)

 その血の臭いが、あんな夢を見させたのだろうか。父、母、姉。ルソン、フク。かつて、将の傍らを通り過ぎていった人たちの記憶。

 現在将は、ルソンの言っていた『月の裏側』の世界にどっぷり頭まで浸かっていた。
 辛辣な風の中で、殺人を繰り返している。一体どうしてこんな事態になっているのか、実のところ将は、未だに自分自身にさえはっきりした説明をできずにいた。


 *


 取調室から脱出して、遠くの街へ移って。
 整備を放棄されたゴミ溜めのような区画に足を踏み入れてからは、将はただ虚ろに座り込んで時間を過ごした。目的もなく。意志もなく。壊れた人形のように。

 どれくらいの日数を、そうしてやり過ごしただろうか。意識が朦朧としかけた頃、不意に誰かが近づいてくる気配を感じ、将はかすかに顔を上げた。

「……から、報告によれば……」
「引き続き調査を……」

 かろうじて聴き取れるその声は、女のものだった。二人組らしい。
 次第にこちらへ近寄ってきているが、単なる通りすがりだろう。こんな場所に女性の二人歩きとは珍しい。将はぼんやり考えたが、また顔を伏せ、生気の抜け落ちた眼差しで虚空を眺めていた。

「……あら?」

 二人の女性のうち、背の高い方が足を止めた。

「どうしたの?」

 もう一人も立ち止まると、連れに倣って薄暗い路地の奥へと視線を注ぎ込む。

「あれ、人よね」
「生きて……ますよね?」

 そんな会話が聞こえてくる。どうも将の姿を見咎めたらしかった。普通の人なら、見なかったことにしてさっさと通り過ぎて行くだろうに、なぜだか二人は特に気味悪がりもせず、身動きしない将の様子を見つめている。

「ホームレスかしら」
「みたいですね。どうしますか、サルビア?」

 二人の視線にさらされながら、将は相変わらず茫漠とした世界に引きこもっていた。

「ねえ、大丈夫?」
「どこか、怪我とかはないの?」

 もう、全てが煩わしい。

「もし……貴方がそれを望むなら、わたしたちきっと貴方の力になれると思うわ」
「心配しないで。わたしたちはね、貴方と似たような境遇の人を何人も知ってるから」

 このまま死ねたらいいのに……
 なのに、背の高い方の女は何度も話しかけてくる。あまりのしつこさに将がうんざりし、追い払おうと思ってついに顔を上げた、その瞬間。

 ……後から思い返してみれば、全ての発端はここだった


 *


(全く、ほんとに人生ってのは何が起こるか分からないな)

 嘆息して、将はシャワーを浴びるため浴室へと向かう。
 玄関、キッチン、ユニットバス、約八畳分の洋室。それが将の部屋の全容である。必要最低限のものしか置いていないが、まず不自由せずに暮らしていける環境だ。
 あのとき彼女ら──サルビアたちと出会ったおかげで、将は凍死も餓死もせずに、こうして人並みの生活ができるようになった。≪桜花≫という地下組織の首領秘書たるサルビアは、将の事情を知ると、組織の一員として受け入れ、正式にポジションを与えてくれたのである。

 だがこの生活は、“夜刀”のメンバーとなって暗殺を手掛けることと交換条件に与えられたものだ。決して世間に顔向けできるものではない。

(『わたしたちは貴方を必要としているの』……か。すげぇ殺し文句だよな)

 当時の情景を思い出して、将は苦笑した。
 差し伸べられた手を、思わず掴んでしまったのは紛れもない事実。
 なぜ、彼女の誘いを受けてしまったのだろう。こうして冷静に思い返してみれば、サルビアが省略した言葉も、手に取るように分かるというのに。

『わたしたちは、貴方みたいな“身軽な人”を必要としているの』

 身軽な人。つまり、まともな社会生活を営んでいない者、という意味だ。
 “夜刀”のような実働部隊は、組織のいわば手足。それに従事する者は、有事の際には必要とあらば切り捨て、後で任意に補充できる……そんな人物でなければならない。
 その条件を、将はものの見事に満たしていた。
 ≪桜花≫を裏切ったり、任務をしくじったりすれば即クビ。他に居場所がないのをいいことに、好き勝手に利用され、運が悪ければ使い捨てられる。

 それは最初から分かり切っていた。なのにどうして、こんな地下組織に関わってしまったのだろう。まったく、自嘲の笑みしか出てこない。
 暗黒社会で暗躍する組織の恐ろしさは、ルソンも常々語っていた。知らない者は一生知り得ない、けれど一旦知ってしまったら、その後の人生を全てかっさらっていきかねないアンダーワールド。
 食うか、食われるか。殺るか、殺られるか。一度足を踏み入れたらもはや戻れない魔窟。

 そんな闇の世界に身を置いて、法で罰することのできない咎人たちを殺め続けるよりは、あのまま薄汚い路地でのたれ死んだ方が、いっそマシだったのではないか。
 時折そんな疑問が頭をかすめないでもない。だが、将は選んだのだ。だからこうして現在、“夜刀”の一員として任務をこなしている。
 こうなってしまった以上、もはや足を洗うことは不可能だった。いまさら理由などを考えてみても、無意味なのかもしれない。

 ──貴方を、必要としているの──

 耳に残るサルビアの声。これほど切なく面映ゆい言葉をかけられたのは、将にとって生まれて初めての経験だった。
 自分を必要としてくれる。将という人間の存在を否定しない……サルビア。“夜刀”。≪桜花≫。
 自覚はなかったが、その時、心の底では、嬉しかったのかもしれない。