異端者たちの夜想曲

1:蠢動 (1)


 ≪桜花≫
日本全国に独自のネットワークを持つ地下組織。
“エーデルワイス”という腕利きの闇技術者を擁し、日本国内では有数の規模を誇っている。構成人数は不明。
エーデルワイスの存在はすでに広く知れ渡っており、畏怖の的となっている。

 紙面に整然と並んだ短文を黙読すると、青年は軽く嘆息した。
 文字をなぞる指は長くすらりと骨張っていて、いかにも上品そうだった。傍目にも仕立てがよいと判る衣服や、背に流れる華やかな金髪とは裏腹に、蒼い双眸に宿った炯々たる光が彼の典雅な印象を覆している。

「今度の出張先が極東(フェルン・オスト)とはな」
「気乗りしないか?」

 呟いた金髪の青年──シュリッツの背中に、別の声が問い掛けた。
 黒髪にダークスーツ、素っ気なく響く口調はどこまでも怜悧、不用意に手を触れようとすれば凍傷を免れないドライアイスのような印象の男である。名をフォルド・シュナイツァーといった。
 二人は互いに目線を合わせることもなく、天然革張りソファに腰を降ろして書類を眺めている。

「アジア進出に不満はない。シュナイツァーこそどうなんだ?」

 問われたシュナイツァーは即答しかけたが、一瞬早く、先取りしたようにシュリッツがにやりと笑った。

「新規開拓は中国・台湾近辺が片付いてからの方が好ましい、か。正論だな」

 ぎゅ、と革が小さく鳴って、出窓から差し込む午後の光が陰る。シュナイツァーが顔をしかめてシュリッツの前に立ちはだかっていた。艶やかな光沢を持つ金髪をさも忌々しげに見下ろして、無言で伊達眼鏡の奥の黒瞳を細める。
 口を開いたのはまたしてもシュリッツが先だった。

「……ああ、悪かったよ」
「反省するくらいなら最初から他人の思考を無断で読むな、シュリッツ・リヒト・フォン・ローゼンクランツ」

 曖昧な表情で目配せするシュリッツと、吐き捨てるシュナイツァー。金獅子と黒豹のつつき合いのようなものだった。互いに気安いようでいて、どこか剣呑で危うい緊張感がある。

「そんなことだから幹部連中から敬遠されるんだろう」

 シュナイツァーの発言は恬淡としていたが、苦笑を閃かせたシュリッツに言い返されることになった。

「煙たがられているのは俺だけじゃないだろう。A2級未来予知能力者、千里眼シュナイツァー。あんただって充分持て余されてる」
「まあな。ナツキといい、全く“白虎(ティーガー)”は厄介者の集まりというわけか」

 それは揶揄ではなく事実であったので、今度はシュリッツもまぜっ返すことはなかった。

「ナツキといえば、遅いな。ここに来るよう伝えてからずいぶん経つが」

 シュナイツァーが神経質そうに眼鏡のブリッジを押し上げる。苛立ったとき、不安なとき、焦っているときの癖である。胸中を垣間見るまでもなく漏れ出ている感情の気泡から、軽い動揺の顕れだと、シュリッツは冷静に分析することができた。

「まあそう言うなよ、シュナイツァー。彼女は昨日トルコから戻ったばかりでまだ調子が出ないんだろう。二度寝でもしてるんじゃ……っと、噂をすれば影か」

 匂いを嗅ぎ取った獣さながら、シュリッツは扉の方へ目をやった。
 ノックどころか足音すら聞こえてこないが、重厚な樫の扉の向こう側をじっと見つめる。その仕草は猫が不意に宙の一点を見つめる様に似ていて、もし真正面から見つめられたら全てを見透かされてしまう恐怖を味あわねばならないような、透過性の高い視線だった。

「……おはよう(モルゲン)

 寝呆けまなこでようやく姿を現した三人目。夏木有瀬(なつきありせ)は、正真正銘の寝起きであった。
 化粧っ気はまるでなく、ココア色に染められた髪には寝癖がついたままで、妙齢の女性にあるまじき状態になっている。しかし彼女の寝起きが悪いのはいつものことで、本人に改めようという気持ちが皆無なので──任務後はなおのこと──シュリッツもシュナイツァーも咎めない。「もう午後だぞ」とだけ言って早々に書類を渡すと、読むように促す。

「≪桜花≫……へえ、今度は日本に行けってことね」

 数枚の紙面にざっと目を通して夏木が呟いたのは、そんな言わずもがなのことだけだった。関心の薄そうな態度もまた、夏木有瀬という女の常であった。
 シュナイツァーが無言で頷く。彼らの唯一の直属の上司、園主が下した決定だった。
 なんの前触れもなくこれほど思い切った命令が出るのは稀なことであったが、園主直属の実働部隊である“白虎”の活動には、必然的に園主の意向が色濃く反映される勅旨に対して取るべき返答はただひとつ、受諾のみ。

「新天地に入植するとなると、一、二ヶ月で帰還というわけにはいかないだろうな」
「ローゼンクランツ君、よかったねえ。日本の“梅雨”ってやつ、見れるんじゃない?」
「……そうだな。その時期に訪日したことはないから楽しみだ」

 出立は三月初頭。最も過ごしやすく美しい季節へと向かう祖国を後にして遠征に出ることを思うと、少しばかり気鬱を排し得ない三人であった。

「……あーあ」

 不意に、夏木の手元で書類が音を立てて燃え始めた。脈略もなく唐突に上がった炎だったが、それを見つめる三つの眼差しに驚きの色はない。
 感傷を払うように、炎は不自然に揺らめきながら瞬く間に書類を覆い尽くしていった。
 燃え落ちた屑を大理石の灰皿に放ると、彼らは静かに部屋を後にする。

 ヨーロッパ随一の精兵たちは、こうして極東へと向けて放たれたのだった。