異端者たちの夜想曲

1:蠢動 (2)


 風薫り、桜の咲きさざめく四月のある日。
 澄み渡った空といい、うららかな陽射しといい、思わず口笛でも吹きたくなるような陽気である。

 しかし、せっかくの春の軽やかな雰囲気も、人間の生み出す悪意と謀略の暗雲がたれこめているその部屋では、全くの無意味だった。
 閉め切った室内には、後ろ暗い密談を交わす四つの人影。性別で分けるなら男性三人に女性一人。人種で分けるなら日本人二人に外国人二人という内訳である。
 四人は、三対一で応接ソファに腰掛けており、その間には重々しい沈黙が沈殿していた。

「悪い話ではないようですね」

 薄い唇から尊大げに言葉を押し出したのは、一人でソファを陣取っていた日本人。
 三十代に入ったばかりであるはずなのに、やけに暗く鋭い目つきの男だ。いかにも狡猾で貪欲そうなその眼差しで、対する三人を油断なく見据えている。
 男の名は、宮乃木真司(みやのぎしんじ)。政界において将来を嘱目されている若手の急先鋒であり、良くも悪くも熱烈な言動で良くも悪くも目立ちがちな人物だった。

 何事にも即決・即行動を宗としている彼が、今は即断を避けて注意深く思考を巡らせている。頭の中では、三人の申し出を受け入れた場合と拒絶した場合、自分の利害は一体どう動くか、数々のメリットとデメリットが目まぐるしく点滅しているに違いない。
 どうやら三人の方は、黙して決断を待つことにしているらしく、結論を急かしたり利点を強調したりといった行動は皆無だった。

「一つお尋ねしたいのですが。もしも私がその……貴方がたが仰るようにしたと仮定して」

 ややあって、宮乃木は慎重に切り出した。

「私にはある程度のリスクが常につきまとうことになります。ことに最近は……『死神』だか『御使い』だか、とにかくそういう物騒な輩が地下で暗躍しているという噂をよく耳にすることですし、はっきり言って私とて我が身が可愛い。安全は保障してくださるのですか?」

 笑みすら浮かべながらきっちり保身に汲々とするあたり、いかにもな計算高さである。
 彼はこれまで、己の権力欲を満たすためにさんざん悪辣な手段を用いてきたし、裏では違法な取引すら数え切れないくらい取り交わしてきた。議員としての地位と権力を固め、さらに高みへと昇るためなら、どんなことも辞さない心積もりでいる。
 これは正念場だ。宮乃木はこっそり掌の汗を拭った。

 宮乃木に向き合っているのは、“白虎”というチーム名で呼ばれる連中である。
 “白虎”とは、欧州の有力な地下組織≪SS≫の特務部隊であり、上層部の命を受けてこの三月に来日したばかりだという。

 真ん中に座っている金髪碧眼の青年──彼の名はシュリッツ・リヒト・フォン・ローゼンクランツという。メイン交渉役であるらしく、流暢な日本語を操り、実に巧みに会話を進める。外交官も務まりそうな才気煥発ぶりだった。

 その右隣に腰掛けている眼鏡の男は、東洋の血も混じっているような顔立ちで、堅苦しい表情のまま「フォルド・シュナイツァー」と名乗った。暗色系のスーツを一片の隙もなく着こなしたその姿は、いかにもやり手のビジネスマンといった風体である。

 左側には最後の一人、日本人らしき女性。姓名は夏木有瀬。夏木女史は、控えめというよりどことなく気の入らない様子で、ココア色の髪先を弄っている。それでも時折は口を挟み、宮乃木の反応を窺うように見つめてきた。

 シュリッツ、シュナイツァー、夏木。“白虎”の三人が宮乃木に耳打ちしたのは、一般的には懐柔とか買収と言われる申し出である。≪SS≫の日本進出の足がかりとなる地下での協力者を求めているらしく、利益を与える代わりに、手足となって宮乃木に動いてほしいのだと言う。
 ≪SS≫の後見は、宮乃木にとってひどく魅惑的な撒き餌だった。欧州の巨大組織の後押しがあれば、これまでは危険すぎて手が出せなかった際どい取引も可能になる。思わず即応しそうになって、慌てて自制した。

 大きな組織ほど、個人を持ち駒のひとつとして軽視する傾向が強い。安易に従って利用され、都合が悪くなった途端に切り捨てられたのではたまらない。最低限、身の安全は保証してもらわねば。
 強烈な言動のわりには用心深い宮乃木だった。

「どうなんです? 『御使い』に人知れず殺されるのも、捨て駒にされるのも御免被りたいのですが」
「その点はどうぞご心配なく。Mr.ミヤノギが我々の条件を承諾してくださるなら、護衛・兼・連絡員をつけさせていただきます」
「我らとしては、ぜひとも貴方にお引き受け願いたいのですよ。政界の最重鎮Mr.トラオ・サンジョウの寵児と名高い貴方にね。どうぞご英断を」

 非の打ち所のない答えを返すシュリッツに、シュナイツァーも唱和する。こちらはややぎこちない日本語だが、発言の意図は誤解しようがないほど明瞭だった。

(護衛つき……か。ずいぶんと奮った待遇だな。それほど日本地下層の甘い汁を啜りたいというわけか)

 宮乃木は思考を顔に出さぬよう細心の注意を払いながら、三人を改めて眺め直した。
 シュリッツは、まるでこちらの返事は予測済みと言わんばかりに泰然としている。優雅ですらある態度だが、蒼い双眸には苛烈なまでに力強い光が満ちていた。シュナイツァーもほぼ同じ様子で、忍耐強く待ちの姿勢を保っている。
 だが紅一点の夏木はというと、「そろそろ座り疲れたわ」とでも言いたげにスカートのしわを伸ばしている。社会人、それも対外交渉に携わる営業員としては確実に落第の態度である。けれどもその無関心さが逆に、宮乃木には考えさせられるものがあった。

(ふん……いいだろう、協力とやらに応じてやろうじゃないか。どうせなら後ろ盾は強くて大きい方がいいしな。お互い様だろうが、せいぜい利用させてもらうとするよ)

 そう宮乃木が胸中で独りごちた瞬間、シュリッツの口元が微妙に釣り上がった。
 ほんのわずか、笑みを形作った唇。それを視界に捉えた宮乃木は、考えが表情に出てしまったかと狼狽したが、どのみち声明発表はしなければならないので、動揺を押し隠して仕方なく口を開いた。

「……ええ、そういうことであるのなら……微力ながらこの宮乃木真司、謹んでご協力させていただきたいと存じます。なにとぞ、よしなに」

 宮乃木の厭味なほどへりくだった返答に、シュリッツは鷹揚に頷いてみせた。
 契約成立である。

 こうして地下組織と一議員の密談は、腹に一物も二物も抱えた両者の固い握手でもって、厚いカーテンの奥、人知れず幕を下ろされた。
 二〇〇三年四月、都内某所。穏やかな陽射しの、とある春の日のことであった。