天人王族の事情
午後のお茶の時間になって従妹のもとを訪れようとしたジブリールは、途中の階段でばったり父王と行き会った。
「お前、ルシファーのところに行くのか。奇遇だな」
「その書類の山は?」
ジブリールが呆れたように訊いたのも無理はない。
仮にも天人王ともあろう者が侍従官も連れず、抱えきれないほどの書類の束を自ら持って歩いているのである。
若手官僚のような出で立ちで父王が何をしに行くのか、ジブリールにはすぐピンと来た。
「また縁談の話か。よくもまあこれだけ資料が集まるもんだなぁ」
「感心してないでお前からもよく諭してやってくれ。どうもあの子は伴侶選びに関心が薄くてな」
「まだ十四歳だ。仕方ないよ」
「もうすぐ十五だぞ。十五歳の誕生日がきたら立太子できる。そうしたらもう立派な淑女だ。婚約の目星くらいつけておかねばならんだろう」
この国では十五歳になると成人に準じる行為主体であると認められる。婚姻は十八歳以上でなければできないが、貴族の子弟であれば婚約者のいる者はさして珍しくなかった。
しかし、亡き先王の娘ルシファーの縁談は未だ整う気配もない。
正統なる天人王位継承者としていずれ至高の宝冠を戴く彼女の夫君殿下となると、家柄、人格、教養、経歴など審査すべき点は果てしなく多い。それでなくとも王族の伴侶候補選びには時間がかかるものであるし……何より、兄夫婦の忘れ形見へ我が子以上に愛情を注いできた天人王としては、そんじょそこらの男には彼女を任せられんという気持ちが強く、気が揉めて揉めて仕方がないといった状態だった。
「十五歳の誕生日は盛大な祭典を催してお披露目する準備を進めてる。当然、婚約の進捗状況が気になる者も多いから、そろそろお前に探りを入れてくる輩がいるぞ」
「適当にはぐらかしとくよ。慎重に審議しているところですね、とか言って」
「呑気な言いぐさだな。候補者選定に関してはお前にもれっきとした発言権があるのだぞ」
ジブリールは何気なく書類を手にとって見ると、一瞥しただけでうんざりした。貴族階級の子弟を取り巻く個人情報がびっしり詰まった身辺調書など、あまり読んで気分のいいものではない。
「何人かまで絞れたら、まだ意見のしようもあるんだけどな」
唸りながら書類を父王に押し返し、背中の翼を一際小さく畳んだ。お手上げの仕草である。
天人王は盛大なため息をもらした。
「そうだよな、去年立派に成人したというのに婚約者を選ぼうともしないお前に話を振った私が悪かったよ。ああ、私はいつになったら内孫の顔が見られるのやら……」
などとさも悩み深げに嘆いてみせたので、ジブリールは内心辟易する。
このところルシファーの余波で縁談関係の説教が増えていて、言う方も頭が痛かろうが言われるこちらもいい加減頭が痛い。
ジブリールは親孝行のつもりで「なるたけ早く花嫁を連れて参ります」と言った。
すると父王は不意に真顔になり、息子の言葉を吟味するかのように沈黙した。一体何を考えているのか、ジブリールを上から下までさりげなく眺めるのは、国家を切り盛りする為政者の理知的な視線。
思わずたじろいだジブリールに向かって、天人王はゆるりと告げた。
「……立候補したい気持ちがあるのなら、妙な遠慮は捨てるのだな」
あの子が幸せならば私はそれでかまわない、と言い置いて父王は再び歩き始める。
問い返す間もない。遠ざかる律動的な靴音を聞きながら、ジブリールは呆然と父王の背を見つめた。
胸中を見透かされた──とは少し違う。ジブリール本人でさえ朧気にしか掴めていなかった想いを言い当てられたのだ。通り魔にいきなりぐさりと刺されたらこんな心境になるかもしれない。それほど唐突で、衝撃的な言葉だった。
従妹の無邪気な笑顔が脳裏に浮かぶ。
もともと城内で兄妹のようにして育った間柄だ。誰よりも身近に彼女と接し、慈しみを注ぎ合ってきた。法願使いの宿命を抱えた彼女を労り、励まし、手を差し伸べてもきた。
けれど、いつまでもそうしていられるわけではないと早くから分かり切っていたのだ。
いずれ彼女は王位を継ぎ、自分は外から花嫁を迎えて官位を賜り、玉座を扶翼する任を担う。それが自然な成り行きというものだと、いつの頃からか思い定めるようになっていた。
だから。だから──。
父王の足取りは闊達で、もはや足音は聞こえてこない。
ジブリールは踵を返した。
お茶を飲みながら父王とルシファーが婿選びの話を始めているかと思うと、その場に加わることは今はどうしても躊躇われた。
次期国王である先代の愛娘と、中継ぎである現王の嫡男。
二人の縁談の噂が明るみに出始めるのは、もう少しだけ先のこと。
END